- まえがき /吉田 武男
- カウンセリング依存症からの脱却――プロローグ―― /吉田 武男
- T カウンセリング万能主義を問い直す
- 第1章 「心」主義の歴史的文脈――氾濫する「心」の語りをどう見るか―― /平田 諭治
- はじめに――なぜ「心」はもてはやされるのか
- 1 言葉としての「こころ」と文字としての「心」
- 2 「心」の言説の成立と転回――近世前期
- 3 「心」の言説の展開と普及――近世後期
- 4 「心」の言説から「教育」の言説へ――近代化と「学校」
- おわりに――「心」主義の現代的構図
- 第2章 「個人の心」に距離をとる教育――儀礼的であることの効用―― /飯田 浩之
- 1 「個人の心」を大事にする教育
- 2 節度なき「個人の心」の教育
- 3 教育における節度の回復
- 4 「儀礼」再考――節度回復の一つの方策――
- 第3章キャリア教育の「柱」と心理主義 /藤田 晃之
- 1 注目されるキャリア・カウンセリング
- 2 アクティビスト・ガイダンス理論
- 3 自分を知りたい生徒たちと職場体験型の学習の推進
- U 学校を生かす
- 第4章 学校や教室で起きている問題を「組織」的視点で捉えてみよう /浜田 博文
- 1 学校は「組織」である
- 2 「組織の問題」は当事者に自覚されにくい
- 3 教室内の「問題」の背景に「組織の問題」を読み取る
- 4 「組織の力」は“開発”可能である
- 5 授業を「開かれた議論の主題」にする
- 6“決め手は校長のリーダーシップ”とは限らない
- 第5章 学校の組織変革と指導改善 /水本 徳明
- 1 少人数学級で不登校や欠席が減った
- 2 学校組織の変革
- 3 学校組織変革をリードする
- 4 「心の問題」として捉えることをやめよう
- 第6章 「教師が主役」のシステムをめざして /藤田 晃之
- 1 超人的な能力が期待される日本の教員
- 2 キャリア開発支援スタッフの配置と役割
- 3 アメリカの学校における「補助教員
- 4 コストパフォーマンスの高さとその背景
- 第7章地域に根づく福祉教育実践――サービス・ラーニングの活用―― /唐木 清志
- 1 福祉教育の問題点
- 2 実践の概要
- 3 サービス・ラーニングとは何か
- 4 「研究するぞ! オムニバス」に見られるサービス・ラーニングの視点
- 5 福祉教育を「心の教育」に終わらせないために
- 第8章大学生による教育実習外のボランティア活動を,教職員はどう見たのか /根津 朋実
- はじめに
- 1 誰に読んでもらいたいのか
- 2 「教育実習でもないのに大学生が学校にいる」こと
- 3 「教育実習外ボランティア」活動の概要
- 4 座談会の記録に見られる「大学生へのまなざし」
- おわりに
- V 「学びの共同体」を創る
- 第9章 「最底辺国としての日本」から見えてくるもの /藤田 晃之
- 1 「学力低下の動かぬ証拠」の再検討
- 2 「学力低下」はどれほど真実か?
- 3 私たちが見落としてきた真の問題
- 第10章 「つながり」を生かす実践 /吉田 武男
- 1 「つながり」を断ち切る学校の心理主義の風潮
- 2 スクールソーシャルワークの導入
- 3 NIE教育の推進
- 4 学級づくりの再構築
- 第11章「ソーシャルコミュニケーション力」を育む「学びの共同体」 /吉田 武男
- 1 専門家への過剰期待と破壊
- 2 カウンセリング依存症からの脱却のための提案
- 3 「ソーシャルコミュニケーション力」を育む「学びの共同体」
- カウンセリングだけに依存しない教育改革を――エピローグ―― /藤田 晃之
まえがき
書店の中で本棚を眺めてみても,教育界の閉塞状況を象徴するかのように,教育書は少なく,片隅に追いやられてしまっている。それとは対照的に,スクールカウンセリング,つまり臨床心理関係の本は,まるでこの世の春を謳歌するかのように所狭しと並べられている。
それらの本を開いてみると,「心の闇」,「心の傷」,「心の居場所」,「無意識」,「自己肯定感」,「自己実現」,「自分への気づき」,「自分探し」,「引きこもり」など,「心の言葉」の概念が溢れている。このような用語が使用され,問題化されたあとは,その対処法として,相談室における従来のさまざまな学派(来談者中心療法や行動療法など)の1対1のカウンセリング療法だけでなく,エンカウンター・グループ,ブリーフ・カウンセリング,ピア・カウンセリングなどの療法,それに加えて多種多様な心理的・治療的トレーニングやプログラムが提案されることになる。今後も,問題状況を研究生活の糧とする専門家によって,自分たちの職域と権限を拡大するために,新たな用語とディレッタントで「マクドナルド化」された「心いじり」の治療法が多く生み出されるであろう。このような状況が無責任にも教育にそのまま持ち込まれているというのが,わが国の学校教育の実態である。
もちろん,カウンセリングの理論と技法がすべて全面否定されるべきものではない。教育場面において,適応範囲と限界が自覚され,特性を生かした節度のある使われ方がなされるならば,その理論や技法は人間形成にとって確かに有益であろう。その意味で,教師が学問の一つとしてそれを教育活動のために学ぶことは,大いに奨励されてよいであろう(その学問的営為は,意図的な目的性や時間的制約の強い学校教育よりも,むしろゆったりとした永続的な社会教育ないしは生涯学習の中で,あるいは家庭や地域をつなぐスクールソーシャルワーカーの活動の中で最も有効に生かされるのではないか,と筆者自身は考えている)。
しかし,人間の個別化や個性化の進行,それに伴う共同体の衰退,さらには快楽を求める消費社会の浸透というような社会的背景を追い風にしながら,学校教育における無節制な臨床心理学分野の拡大,換言すれば学校の心理主義化という現在の風潮は,「自助」や「関係性」を大切にしなければならない学校教育の分野においては,特に確固とした共通の宗教的基盤を有しないようなわが国の学校においては,大いに警戒されなければならないであろう。なぜなら,カウンセリング依存症に象徴的に現れている心理主義化は,子ども(教師も含めて)の個人化ないしは内面化(自閉性)傾向を強め「私」への過剰な関心を増幅させるだけでなく,個々人において日常社会の現実性の乏しい「心」の援助や支援の必要な自助能力の弱い人間を多く生み出してしまうからである。その結果,学校と教師に対する信頼や尊厳の低下とともに,カウンセラーに対する絶対視や神格化に基づく依存性が強くなり,果ては社会的視座の希薄な子どもが育成されてしまうからである。
本書は,そうした心理主義の問題点を指摘し,わが国にふさわしい「学びの共同体」としての学校文化の再構築に向けて,一石を投じようとするものであるが,多くの点においてまだまだ荒削りな主張・提言の段階に留まっている。読者の忌憚のないご批判とご意見をいただき,私たちの足りない点を反省したうえで,この先の新たなる具体的な実践を提案することにもつなげていきたいと考えている。
なお,本書の論考は,基本的に,月刊誌『教職研修』に1年間(2005年9月〜2006年8月)にわたって連載した内容に加筆・修正を加えて発展させたものである。この出版の意図を汲んで転載を承諾していただいた教育開発研究所に感謝するとともに,この企画に同意し,出版をお受けしていただいた明治図書,特に企画・編集にお力添えをいただいた編集部長樋口雅子さんには厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。
2007年7月 編著者 /吉田 武男
カウンセリング批判に興味を惹かれたのなら、吉田武男先生の
ほかの著作にあたるべきである。