- T 村の教師はどう生きるか
- 一 子らのうた
- 二 つばくろのうた
- 三 私たちは問題のまん中にいる
- (1) ある母親の詩
- (2) 「子どもが……だまっとれ」
- (3) 「ちっともいうことをきいてくれません」
- (4) 学校の麦と村の麦
- (5) 学校は信じられているか
- (6) 「進学できるかと心配だ。もっと力をつけてやってほしい」
- 四 村の教師の生きる道
- (1) さまざまな生き方
- (2) 「たたかい」は問題を解決するか
- (3) 第一義のもの・子ども
- (4) 親・子・教師の磨きあいと育ちあいを求めて
- (5) 村を拓く四つの鍵―親・子・教師の育てあうもの
- <その一>――愛
- <その二>――合理的な知恵・生産的な知恵
- <その三>――喜びをみる知恵
- <その四>――手をつなぎあって生きる生き方
- (6) 親・子・教師の文集『はぶが丘』
- U 生きているということのすばらしさの中で
- (1) 夕焼の小便
- (2) いのちのであいを大じに
- (3) 生きているということのすばらしさ
- (4) 「パンツがよごれる」
- (5) 子どもが一番求めているもの
- (6) わたしはどうすればいいか
- (7) みぞれの降る日
- (8) 「教える教育」の限界
- (9) 「モンジャナッテヤジャナイ」
- (10) M君の思い出
- (11) ものを言わない子ども
- (12) 子によりて
- (13) 三校長に学ぶもの
- (14) 愛と知恵
- (15) 若き保母S先生の記録
- V 村の子らに力を――村を育てる「学力」と「構え」
- 一 感傷はゆるされない
- 二 子どもはどう太るか
- (1) モリタミツに学ぶ
- (2) 教科の論理と生活の論理
- (3) 日本のひろがり
- (4) 「文字力」をつくるもの
- (5) 「読解力」を育てるもの
- 三 学力の普遍性と地域性
- (1) 学力の普遍性
- (2) 学力の地域性
- (3) 「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」
- (4) 澄ちゃんという子どもの学習
- 四 生活を育てる道
- (1) 作文的方法への注目
- (2) 教科を大じにする作文
- (3) 作文の育つ土
- (4) くらしを拓くために
- 五 学習帳――このよいもの
- (1) 頭を働かせるということ
- (2) 学習帳のはたらき<その一>
- (3) 学習帳のはたらき<その二>
- (4) 学習帳指導の問題点とその克服策
- 六 村の学校の教科経営
- (1) 「愛」にたつ学習
- (2) 村の学校の国語学習
- (3) 村の学校の算数学習・理科学習
- (4) 村の学校の家庭科学習・社会科学習
- (5) 村の学校の芸能科学習
- (6) 学習形態の探究
- 七 木々は芽をふく
- (1) いのちをふれあって働く子ども
- (2) 村のおとなたちの中に育ちつつある芽
- (3) K君の生き方
- あとがき
東井義雄さんのこと
ひろい体験と深い思慮から生れたこのりっぱな本、個性のあふれためずらしい本、その巻頭に私のようなものが、こんなことを書いてよいのだろうか。
私が東井義雄さんを知ったのは、たしか昭和十年前後のことであった。あるいはもっと前なのかもしれない。ともかく、『綴方生活』『生活学校』『教育・国語教育』『工程』などの誌上で、その名を知り、よく勉強する人だなあと、いつも思っていた。私たちが北方性教育運動をとなえたとき、西の方からいち早く賛意を表してくれた人のなかに東井さんもいたような気がする。アズマイかトオイか北方のみんなで語りあったおぼえもある。昭和十一年秋の『教育・国語教育』に私が「教壇的批評と文壇的批評」という小論を書いたときにも、何かの雑誌で、東井さんはいい論文だといってくれた。生活綴方運動や教育科学運動が活ぱつになり、その人物地図などが話題に出ると「兵庫では東井」と、きまって指におられるのが東井さんであった。
やがて生活綴方や「生活学校」に弾圧がくだされ、私たちのつながりはバラバラになった。主なものの身体も牢屋にもっていかれた。昭和十八年暮、牢から出た私は、東京のある工場に就職した。その工場の社長の厚意によるものだった。ある日その社長が新刊の文芸春秋を持ってきて「この論文どうかね。知っている人?」とあるページを示した。そこに東井さんの「臣民の感覚」という論文がのっていた。たしか子どもが書いた紀元二千六百年史の文章の一部が引用されていた。東井さんのかつての読書傾向まで知っていた私は「おたがいにとうとうここまで来たんだなあ」と思った。私にしても、追いつめられたという感じと、いや、こうなくてはならないのかもしれないなと思う心と、そのふたつのいりまじりのなかで、動揺しているそのころであった。その一方、東井さんが浅野晃に心酔しているらしいことを知り、ああと私は思った。それきり私は東井さんの消息をきかなかった。
太平洋戦争後、しばらくして生活綴方運動が復活した。兵庫にもわかい八木清視君や小西健二郎君が出て、生活綴方を中心とする教育運動はひろがった。東井さんのところに近い京都の方にも、佐古田好一校長があらわれて、私だちと仲よくなった。それらの人びととあうたび、私は東井さんの消息をたずねた。「いますよ。山のなかで、じっくりやっています。いろいろ教えてもらっています。でも、まだ外へ出るようなことはしません」それをきくたび、私はまだ会ったことのないまじめな東井さんの顔を思いうかべて、新しい出発のために、心をととのえているその人のくるしみを察した。同時に戦争中の責任などをハッキリさせることなく、外側につき出ている自分の軽薄さを恥じる思いがつのるのだった。
このたび佐古田好一さんのあっせんで出版されるというこの本のゲラ刷を見せてもらって、私はいっぺんにうれしくなった。いよいよ東井さんは外へ出てきはじめたのだ。十二年間のくるしみと反省は、まったく長かった。そのあらわれであろう。この本には、おのれにきびしい東井さんのすがたがいたるところにあらわれている。村の教育のことについて、こんなに細かく、こんなに真剣に考えた人が、いままであったか、とおどろかされるほど、この本は東井さんの個性をにじませている。
そこで東井さん。私もあなたも弱かったのだ。弱いものはあやまりやすいのだ。しかし、あやまりだったと知ったとき、教師たるものが悔い改める道はどこにあろう。いま目の前にいる子どもに正しく新しく奉仕する以外に、ほかの道はないのではないか。あなたのこの本は、そのことを示して、おたがいにあやまった時期をもつ私たちに大きなはげましを送ってくれる。いや、それをのりこえて、わかい人たちにも自信を与えていてくれる。十年のくるしみをこえて、この本を書いてくれたあなたに、心からの祝福を送りたい。
一九五七年五月 /国分 一太郎
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