- まえがき
- 第1章 授業における教授行為とは何か
- 一 現代授業論の課題
- 二 教授行為の技術体系
- 三 教授と学習との統一ということ
- 四 二つの教材解釈
- 五 二つの発問
- 六 発問による「対立と分化」
- 第2章 「ゆさぶり」発問とは何か
- 一 「視点の転換」とゆさぶり
- 二 学習集団における「対立と分化」の予想
- 三 発問=応答過程の組織化
- 第3章 学習集団の質的発展とは何か
- 一 個人差をどうとらえるか
- 二 三つの偏りの克服
- 三 学習集団の質を高めるために
- 四 学習行為の特性
- 五 二つの教育現実
- 六 授業における認識興味の形成
- 第4章 授業において班活動を組織することの教育的意義
- 一 学級教授組織と班活動
- 二 学習規律と班活動
- 第5章 「統一と分化」の教授学
- 第6章 指導における共感と要求
- 一 子どもへの愛と要求
- 1 「荒れる」子どもの「荒れない」部分
- 2 個性への共感的要求
- 二 自立「過程への指さし」としての評価活動
- 三 「肯定の発見」としての評価活動
- 四 「明日への要求」としての評価活動
- 五 「ねうち」の競い合いとしての評価活動
- 六 レトリックとしての評価活動
- 七 「歴史づくり」としての評価活動
- 1 達成感とともに改廃していくということ
- 2 自己指導力を育てるということ
- 第7章 子どもたちに「まなざし」と「居場所」を
- 一 いま、なぜ「不登校」なのか
- 二 子どもたちが「居場所」を見つけるとき
- 三 まなざしで呼びかける
- 四 授業成立の起点としてのまなざし
- 五 授業への参加を指さし・ねうちづける
- 六 教室を「まなざしの場所」にする
- 第8章 子どもたちの身に語りかける
- 一 身に「ふれる」――肉体に「さわる」ではない
- 二 「体験的学習」の今後
- 三 身に「語りかける」――ペスタロッチの場合
- 四 身にかかる語り――「話」ではない
- 五 「応答し合う」場所を成立させる
- 六 生活綴方教育の継承と発展
- 七 語りかけとレトリック(説得の論理)
- 第9章 居場所としての班づくり
- 一 幻想的ロマン主義からの脱却
- 二 班づくり――否定を肯定に転化する
- 三 居場所づくり――達成感とともに
- 第10章 学習規律とは何か
- 一 生活指導における集団づくりの方法
- 1 戦後教育におけるキーワードの確立を
- 2 子どもを変えるキーワード
- 二 学習規律づくりの思想と技術
- 1 学習主体づくりとしての規律
- 2 共同参加過程としての規律
- 3 肯定の「発見と評価」
- 4 達成感とともに規律は育つ
- 三 「授業と集団」モデル――学級で学ぶということ
- 1 学級をとらえる三つのモデル
- 2 「かかわり合う」自律的規律を育てる
- 3 「接続語」による「からみ合う」授業をつくる
- ◇解 説◇学級で教えることのドラマと技術 /久田 敏彦 /深澤 広明
- 1 「辞書」と「テレコ」の間
- 2 教えることの「技術」の確立
- 3 「学級で教える」技術の「体系」化
- 4 学習集団づくりのドラマ論的展開
- 5 校長として子どもたちと「向かい合う」
- 付記
まえがき
本書は、吉本均の「著作選集」の一冊である。吉本均は、戦後わが国の大学に制度的に誕生した教育方法学という学問領域を教授学研究の立場からリードし、教育実践の現場においては授業研究にもとづく学習集団づくりを推進した研究者として知られている。二十一世紀に入り、教育について混迷の度を増すこの時期に、吉本均の多数の著作を「学級の教育力を生かす吉本均著作選集」として編集し、刊行を決断したのは、吉本均の教授学や学習集団づくりの理論と実践に関する知見が、こんにち、なお意味があり、現代社会は、いまこそ、吉本均の著作や言説を必要としていると考えたからである。吉本均の著作は、次の五つの観点から読みつがれる必要がある。
第一に、吉本均の提起した教授学や学習集団づくりの理論は、「学級の教育力」を生かして授業を成立させ、発展させるものである。それは、学級に「ともにある」子どもたちと教師が、ちからをあわせて、よい授業をし、よい学級をつくろうとするものである。こんにち学校教育は、学力向上の成果のみにとらわれていて、授業は生き方や態度の形成をもめざしていることを忘れている。子どもたちの連帯は失われ、学習は、個人主義的なもの、周囲との関係から逃避する利己主義的なものに変質し、そのため安易な「学級解体」論が横行したりしている。
しかし、近年、わが国の授業研究は、世界から「レッスン・スタディ(Lesson Study)」として注目されている。そこでは、日本の授業が、子どもたちの関心や情緒を喚起して、子どもたち相互を親密にかかわり合わせ、「間違い」や「つまずき」を大切にした集団的な学習であることが着目されている。吉本均は、「連帯のある学級」をつくることと「わかる授業」をするということを同時に実現するように授業を構成すること、授業が子ども相互の親密な連帯を基盤として営まれることを説いてきた。世界が日本の授業研究に注目する時代に、あらためて「学級の教育力」を生かした授業を実現することを追究してきた吉本均の著作は、読みつがれる必要がある。
第二に、吉本均の授業の構想は、「底辺」の子どもたちに「まなざし」をそそぎ、そうした子どもたちが授業に参加し、授業内容にかかわって発言するようになることを見通したものである。「習熟度別授業」が学校現場に広がるなか、学級のなかの「できる」子どもも「できない」子どもも、「ともに」授業に参加し、授業のなかで発言し、相互にかかわり合うことによってこそ、一人ひとりの学びを深めることができ、学力を保障するものになるという学習集団づくりの知見を、いまこそ引きつぎ、発展させなくてはならないと考えたからである。
学習集団づくりが誕生した時代は、学校へ行くこと、授業に参加することが積極的意味を持っていた時代であった。「全員参加」や「全員発言」という言葉が、そのまま実践の推進力になりえていた。しかし、こんにち学校へ行く意味が問われる時代、公教育の意義が問い直される時代がやってきた。学校に来ることを拒む子ども、学校に来ても発言を拒む子どもには、「全員参加」や「全員発言」は、ある種の「成果主義」に映らないだろうか。われわれは、子どもたちが学校へ行くことには、いまなお意味があると考える。また、子どもたちにとって意味があるように公教育を維持し、発展させなければならないと考える。しかし、こうした状況の変化に対して、学習集団づくりは再構成される必要がある。しかし、そのさい、吉本均が、どのような「まなざし」で学習集団を組織しようとしたかの原点を継承し、こんにちの状況に合わせて読みひらかれる必要がある。
第三に、吉本均の学習集団づくりによる授業の構想は、「〜さんの発言につけくわえます」「〜さんの発言に反対します」といった「発言形式」を発展させて、発問による「対立=分化」から「真理=真実」の共有をめざした「接続語のある授業」を求めた。授業は、教室のなかで教師の教材解釈をもとに行われる。学習集団づくりの授業においても、教師は、教材解釈をもとに発問をし、集団思考を組織する。学習集団の授業は、教授行為の主体である教師と学習行為の主体である子どもたちとの「対決」ととらえて、ときに子どもたちが教師の教材解釈を乗り越えうることを示してきた。
授業のなかで、子どもたちは、教科書や板書を読み、ノートに書き、教師や同級生の発言を聞き、教師や同級生のほうに向かって自分の考えを話す。読み、書き、聞き、話すのは一人ひとりの子どもたちであるから、その意味では学習は個人的なものである。しかし、読み、書き、聞き、話すには、相手や他者が必要であるという意味では、学習は集団的、社会的なものである。このような、読み、書き、聞き、話すという言語行為を媒介として、学力は育てられる。そうすると学力とは教科内容にかかわった読み、書き、聞き、話す能力のことであり、その視点から学習集団づくりの理論や授業の構想は、教科内容論と言語行為論とを結合させて発展させられなければならない。この意味で、学習集団づくりにおける言語とコミュニケーションの理論がとらえなおされ、発展させられねばならないのである。そのためにも吉本均の著作が読みなおされる必要がある。
第四に、吉本均が授業実践の現場で新しい学問的知見を取り込みながら、たえず更新しつづけた教授学の構想は、学校教育や授業という枠をこえて、保育や看護といった福祉やヒューマンサービスの世界、あるいは人を育てる仕事において見直されているからである。授業研究の現場で、たえず教育実践のリアリティやアクチュアリティに迫ろうとしてきた吉本均の教授学は、「教室の人間学」へと発展し、授業を「見る―見られる」相互的表情関係、身に「ふれる―ふれられる」相互身体的関係、「語る―語られる」相互主体的関係、「呼びかける―学びとる」呼応的関係、「問いかける―選びとる」ドラマ的関係、といった五つの相互作用の位相からとらえる。「表情する身体」を生きている子どもたちと出会い、「まなざしで身体に語りかける」日常を教師もまた生きていることを豊かにとらえ励ます教授学キーワードや関係論的視点は、同じように「人が人とかかわりあう」職場である看護や福祉の世界にも通じている。この意味で、吉本均の著作は、学校教育を越えた世界から、再評価される必要がある。
第五に、吉本均による教授学の人間学的構想にいたる学問的な歩みは、組織やイデオロギーといった「上から」の発想ではなくて、たえず人間のあり方そのものの現実にきびしく「向かい合う」学問的姿勢とそこから深まる人間観に支えられたものである。教育とは、「明日を生きる喜び」を一人ひとりに教えることであり、一人ひとりの「可能性への愛と要求」のドラマを実現していく仕事である。そうした仕事のためには、できるだけ文献にあたることと現場実践上の問題にふれることとを結びつける学問の方法論が必要である。いわば、レファレンス(理論研究)とフィールドワーク(実践研究)との統一を心がけなくてはいけない。専門職にとって、実践経験は大切なものであるが、なぜそのように実践するのかという理論的説明を欠けば、専門職の本質的な意味での進歩はない。教職の専門性が問われる時代にあって、あらためて学問的な方法論の原点に立ち返り、そこから学び続けなくてはならないからである。
以上のような五つの観点において、本「著作選集」は、たんに追憶のために刊行するのではなく、これから求められる教育方法学の研究と教育実践の前進のために刊行するものである。
吉本均の「著作選集」を編集するにあたって、その単著、編著、訳書、論文等の膨大な著作群から、何をどのように選択し配列するかは重たい課題である。先生の教えを受けたものたちが集まって「著作選集」の刊行へ向けて、何度も論議を積み重ねてきた。結局のところ、単著を基本としつつ必要に応じてその他の著作から補うようにして、全体の構成が、吉本均の「教授学と学習集団づくり」の理論的発展が読みとれるように選択配列し、以下のように五巻を構成した。
第一巻 授業と学習集団
第二巻 集団思考と学力形成
第三巻 学習集団の指導技術
第四巻 授業の演出と指導案づくり
第五巻 現代教授学の課題と授業研究
第一巻から第五巻へ向けて、吉本教授学の思想史的あるいは問題史的な発展を基本としているが、各巻の主題に応じて必ずしも歴史的順序で配列されているわけではない。歴史的なものと原理的なもの、理論的なものと実践的なものの緊張と統一のうちに、みずからの教授学をたえず更新して現場実践に通用する学習集団づくりの理論形成をはかってきたのが吉本均における「教育の思考形式」だからである。それぞれの巻の位置づけや特質、現代的な意義や引き受けるべき課題については、各巻の編者による解説を付してある。また、吉本均の「主要著作と略年譜」を第五巻の巻末に掲載したので、あわせて参照してほしい。
学習集団づくりによる授業研究は、現場の教師を授業研究者、よい実践を、ともにちからをあわせてつくりだす研究のパートナーと考えてきた。教育方法学は実践のため、教師のために役立たなければならない。また授業や学校づくりに多くの人々が関与する時代にあって、本「著作選集」が、教師はもとより、教育実践に関心を寄せる多くの人々によって読まれ、ちからをあわせて次の時代の教育方法学を築き上げる礎となることを希望する。
文末になりましたが、本「著作選集」の刊行にさいしては、吉本均の最初の単著である『授業と集団の理論』以来、ご本人のお言葉を借りれば「先生の戦友として」一貫してご支援をいただいている明治図書相談役の江部満氏、さらに出版事情の厳しいおりにご助言等をいただいた樋口雅子編集部長に感謝申し上げます。
二〇〇六年六月
吉本均著作選集刊行委員会・広島大学教育方法学研究室 /中野 和光 /深澤 広明
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- 明治図書