- 刊行に寄せて
- まえがき
- ―十五歳の精神の遍歴―
- 第一章 自己形成の光源
- 一 彼の作文からみえてきたこと
- 一・私の無関心
- 二・他者に認められない怖さ
- 三・三つの否定の連鎖
- 四・〈わたし〉への問い直し
- 五・〈あなた〉への気づき
- 六・僕、かっこいいなあと思ったんです
- 七・私の挑戦
- 二 自己形成の光源
- 一・自己と対峙することに恐れおびえている子どもたち
- 二・人格形成の樹
- 三・感受の光・省察の光・真正の光
- 三 自己形成を阻むもの
- 一・自己を形成する拠り所の喪失
- 二・子どもの自己形成を阻むもの
- 三・弱者への排斥とメルトダウン
- 四 自己形成と教師
- 一・学びの意味の喪失と見て見ぬふり
- 二・思考停止のオートスキャン教師
- 三・その子の過去を慮り、その子の今を灯し、その子の未来へと拓いていく
- 五 自己形成を育む授業とは?
- 一・二十一世紀に生きる子ども像への転回
- 二・夢中・工夫・もがく
- 三・授業づくりの転回
- 四・教師の転回
- 第二章 自己形成を支えるまなざし
- 一 友のまなざし
- 一・友だちは見ていてくれる
- 二・〈あなた〉のまなざし
- 二 家族のまなざし
- 一・死んじまえと思った父と、とてもとてもほめてくれた父
- 二・母のまなざし
- 三・とてもとてもほめてくれた父
- 三 授業へのまなざし
- 一・子どもが思う授業へのまなざし
- 二・授業は、生命のうずきと躍動感
- 第三章 自己形成とことば
- 一 ことばは「成り立ち」
- 一・「ことば」では学べない「学び」に還るべきではないか
- 二・「柵」という漢字とヤギを飼うくらし
- 三・ことばの喪失は、自己形成の喪失
- 四・牛山の真髄
- 五・経験とことばのあいだ
- 六・陣痛をともにしなければ……
- 二 ことばは「経験」
- 一・『学びのゆくえ』との出会い
- 二・経験をことばにしてみよう
- 三・学び合いって?
- 四・経験を突き刺す問い直し
- 三 ことばは「根」
- 一・〈あなた〉の心のなかにあることばを書こう
- 二・やってみなくちゃわからない
- 三・〈わたし〉の「ことばの樹」をつくろう
- 四・勇気を出して
- 四 ことばは〈わたし〉
- 一・心のなかをのぞいてごらん
- 二・「一歩」の意味
- 三・「一番」の意味
- 四・友だちの「幸せ」も見つけていこう
- 五 ことばは「鍵」
- 一・わたしの居場所
- 二・居場所があるかないかは、自分の気持ち次第で変わる
- 第四章 自己形成と学びの授業
- 一 「学ぶということ」 /牛山 榮世
- 一・「学ぶということ」
- 二・この詩は実際の学びから生まれた詩だ
- 三・〈あなた〉へのまなざし
- 四・たかし君の涙のわけ
- 二 「学びは旅である」 /佐藤 学
- 一・テキスト
- 二・授業デザイン
- 三・子どもから出された意見記録
- 四・二年前の涙
- 三 「学びは真似び」 /小国 喜弘
- 一・学びの先にあるものって?
- 二・二年生に進級したころのさくらさん
- 三・さくらさんの問いの根にあるもの
- 四・学びは真似び
- 五・子どもからの質問
- 六・さくらさんの広がりと深まり
- 七・授業に〈未来〉を意味づける
- 第五章 自己形成と信州教育を支えた教師
- 一 淀川茂重〈あなた〉に気づく感受の光
- 一・直輸入の指導をあえて避ける
- 二・二つの抗い
- 三・信の友だち
- 二 牛山榮世〈わたし〉を問い直す省察の光
- 一・突き詰める
- 二・お前の「軸」は何か
- 三・まなざし
- 三 佐藤学〈みんな〉と新しい関係を編み直す真正の光
- 一・世界へ、一人残らず……
- 二・子どもを引き受ける、社会を引き受ける、現実を引き受ける
- 三・学びの敵は、真面目・努力・反省
- 四・夢中・工夫・もがく子どもへ
- 五・文学を学ぶということは不幸を学ぶこと
- 六・四人グループのよさは、一人になれること
- 七・学びは脆さと脆さがぶつかり合ったとき、もっとも美しい
- 第六章 教師をめざす学生たちへ
- 一 子どもを信じきれる〈わたし〉になったとき、授業が変わった
- 一・「外」から「内」へ
- 二・「内」から「祈り」へ
- 三・「祈り」から「真正」へ
- 二 教師としての三つのバランス
- 一・お前の教師としての軸はどこだ 〈恩師の声〉
- 二・先生、私の声が聴こえていますか 〈子どもの声〉
- 三・先生、しっかりと全身で子どもを引き受けていますか 〈同僚の声〉
- 三 テキストに向かうまなざしに子どもの自己形成がある
- 一・心に残った叙述は、その子の自己形成の灯り
- 二・叙述は、〈わたし〉の現在・過去・未来
- 三・三つの出会いと対話を授業にデザインする
- 四・ことばは、子どもの灯りであり、絆であり、祈りである
- 四 子どもは、頭と心と体が一つになって学んでいる
- 一・〈わたし〉がぶれているときは、小学生に会いに行く
- 二・チャイムで授業が始まることへの戸惑い
- 三・子どもと並び見る教師のまなざし
- 四・心はコスモス
- 五・全身で紡ぎ出す
- 五 授業に哲学はあるか?
- 一・教師の転回
- 二・私の転回となった授業
- 六 課題中心授業から作品中心授業への転回
- 一・「そっとうた」 谷川俊太郎
- 二・「祖母」 三好達治
- 七 テキストにもどせるのは教師だけ
- 一・声はつながっている
- 二・発言は出るが焦点化しない、学びが深まらない
- 三・いったんグループにもどす
- 四・話し合いではなく「学び合い」に
- 八 教育実習に身を置いて
- 一・まなざしを問い直す
- 二・「生きる」(谷川俊太郎)を選ぶ
- 三・単元をデザインする
- 四・「生きる」と出会う(第一次)
- 五・ことばと出会う (第二・三次)
- 六・「あなた」って?(第四次)
- 七・授業をデザインする
- 八・子どもの読み描き
- 九・一番学ばせてもらったのは私自身
- 十・〈自分ごと化〉(第五次)
- 十一・〈自分ごと化〉のデザイン
- 十二・子どもの〈自分ごと化〉
- 十三・Sさんのふり返り
- 十四・子どもがふり返る「生きる」の授業
- 十五・子どものなかにSさんが棲んでいる
- あとがき
- ―まなざしが光を突き詰め、光がまなざしを突き詰めていく学びへ―
刊行に寄せて
学びとはどのような行為なのか。言葉の学びによって、人はどのような世界を拓くのか。それら根源的な問いかけによって本書の実践は成立している。読者は、「自分の心の中にあることばには影が隠れている」と記す女子生徒(中学一年)の言語感覚の鋭さと学びの確かさに驚嘆するに違いない。この一節に端的に表現されているように、頓所さんの授業は、子ども一人ひとりが言葉の根っこを突き詰め、他者の学びに触発されながら自らの言葉を紡ぎだす学びによって成立しており、真正の学びを実現する探究の共同体を創出している。これまで多くの先人たちが文学の学びの豊かさを開示してきたが、頓所さんほど、言葉と学びの根源を子どもたちと共に突き詰め、実践的でありながら哲学的に探究し続けた教師はいない。そのまなざしと思索のすべてが、本書の中には凝縮して表現されている。
本書で言及されているように、頓所さんの授業実践は、信州教育のなかで育まれてきた学びの革新的伝統の延長線上に位置している。杉崎k、淀川茂重に始まり牛山榮世へと連なる学びの伝統である。その伝統と学びの共同体の哲学とが結びついたところに、頓所さんの学びの実践が開花した。その奥行きが、本書の子どもの学びの事実には息づいている。
頓所さんが学びの探求を本格的に開始したのは、今から20年ほど前、牛山榮世さんが副校長をつとめていた信州大学教育学部附属松本中学校である。頓所さんが同校に着任する前年まで、私は同校の学びの共同体を支援していた。私が頓所さんと出会ったのは、頓所さんの前任校の中野平中学校である。そして本書の実践の舞台である木島平中学校で、再び、頓所さんと共同で学校づくりと授業づくりに挑戦する幸運に恵まれた。木島平村は、幼少中と一貫した学びの共同体の改革が実現している地域であり、本書に登場する生徒たちは、その教育環境で育ってきた子どもたちである。頓所さんと生徒たちの学びは、信州教育の輝かしい伝統と未来への果敢な挑戦との結節点で開花したのである。
読者の方々には、何度も繰り返し読み返していただきたい。本書が提示する学びの世界は豊穣であり、その光源が放つ思想的実践的な示唆は汲みつくせないほど豊かである。
「学びの共同体研究会」代表 /佐藤 学
-
- 明治図書
- 学部で習ってきたものとは異なる学習観で編まれていた。2021/8/14アラピカル
- 子どもの具体的な姿から多くのことを学ばさせていただきました。2018/4/2540代・中学校教員
- 大変役にたつ2018/4/1960代・小学校教員