- まえがき
- T 伴一孝、「討論の授業」の「原風景」
- U 校内研で「伝え合う能力」を追究する
- 一 「雲」の授業(第一回研究授業)
- 1 第一回研究授業(六月一一日)の構想
- 2 第一回研究授業の検討
- 3 「雲」の授業その後
- 二 「白いぼうし」の授業(第二回研究授業)
- 1 第二回研究授業(六月二一日)の構想
- 2 第二回研究授業の検討
- 3 「白いぼうし」の授業その後
- 三 「だれですか」の授業(第三回研究授業)
- 1 第三回研究授業(七月二日)の記録
- 四 「三年とうげ」の授業(第四回研究授業)
- 1 第四回研究授業(七月一三日)の構想
- 2 第四回研究授業の検討
- 五 「アナトール工場へ行く」の授業(第五回研究授業)
- 1 第五回研究授業(九月一七日)の構想
- 六 「一つの花」の授業(第六回研究授業)
- 1 第六回研究授業(一〇月二一日)の構想
- 七 「おうむ」の授業(第七回研究授業)
- 1 第七回研究授業(一一月一二日)の構想
- 八 「国語辞典」の授業(第八回研究授業)
- 1 第八回研究授業(一一月一九日)の構想
- 九 「あたたかい土地に住む人々のくらし」の授業(第九回研究授業)
- 1 第九回研究授業(一二月三日)の構想
- 一〇 「あたたかい土地に住む人々のくらし」の授業(第一〇回研究授業)
- 1 第一〇回研究授業(一二月三日)の検討
- V 「ごんぎつね」研究授業で、旧教育文化を圧倒する
- 一 「ごんぎつね」の研究
- 1 「ごんぎつね」の研究
- 二 「ごんぎつね」の授業の構想
- 1 「ごんぎつね」光村四年下 授業の構想
- 三 「ごんぎつね」学習指導案
- 四 「ごんぎつね」の授業、完全テープ起こし
- 五 研究協議で旧教育文化を打破する
- W 「『伝え合う能力』を高める討論の授業システム」をどのように構築するか
- 一 「伝え合う能力」を高める討論の授業システムはこうする
- 二 「結論」を支える根拠は何か
- 三 子どもの「伝え合う能力」は、どのように発展するか
まえがき
教師になって、二万時間(二万回)ほど授業をやってきた。
人前での授業(研究授業)は、三〇〇回くらいだから、一・五%程度だ。
だから、授業が上手くなったとは思わない。
毎日、必死になって、子ども・教材と葛藤している。
だが、人が「大変だ」と言っている(思っている)事は、私にとってさほど大変ではない。
駆け出しの頃から、向山洋一氏に学んできたからだ。
TOSSは、実に楽しくて役に立つ、世界の教育の最先端情報が集まる。
向山氏の弟子となってからは、特にそれを痛感する。
向山一門も、現在は一〇〇名になった。
二〇代から五〇代までの教師が、そこで切磋琢磨している。
スリリングで、豪快で、なおかつスタイリッシュな世界がそこにある。
私の仕事術の一つである。
毎日学校に行く時に、あれこれ持って行かねばならない物がある。
日常生活に使う物や教材を購入して、教室に持ち込むからだ。
その他にも、教室に置いておいた方が良いと思う物は、迷わず購入して持って行く。
だから、滅茶苦茶荷物が多い。
こういった物を、学校に持って行く時、よく忘れ物をする場合がある。
工夫が必要だ。
私は、紙袋を玄関に置く。
そして、学校に持って行く物を、この中にどんどん入れていく。
思い付いたらその時に入れてしまう。
こうすれば、ほとんど抜け落ちが無くなる。
「後で……」と考えたら、その時点で負け(駄目)だ。
自分の部屋でまとめようと思っても、無理だ。後回しになる。
玄関に紙袋を用意して、思ったその時に入れていくのがコツ。
出発する時は、何も考えずに紙袋を車に積めばよい。
仕事は、この様に一つ一つ自分で工夫してやっていくものだ。
工夫の無い者を「素人」と呼び、「玄人(プロ)」と区別する。
工夫とは、「段取り」の事に他ならない。
「教育の研究」という「仕事(の一部)」から逃げていては、教師の人生は楽しくない。
自分のプライドを楯に、八面六臂で捌いていかねばならない。
どんな教師だって、毎日毎日、学校に出て「仕事」はやっている。
「教育の研究」も、これと同じ事なのだ。
「当たり前」だと思ってやっていなければ、そこに逃げる≠ニいう選択肢が生じる。
だが、学校から逃げる$lは、余程の事情が無い限り、いない。
「仕事」というのは、何でも「当たり前」にやれば良いのだ。
これが、プロとアマの最大の違い。
教師のプロは「教育の研究」に全身全霊をかけて打ち込み、アマはそこから逃げる。
要は「プライド」の問題なのだ。
多くの人は、「自分の足で、その場に立っている」と思っている。
だが、本当は、「誰かがその場に立たせてくれている」のだ。
この世にある事は、全部因果の帰結なのだから、「自分がやった事(結果)」というのは、全部「因果に依って」という条件付きだ。
だから次は、また「その場で精一杯やらせていただく」のが、「因果」に対する自分なりの「答礼」なのだ。
そして、この「答礼」のレベルが、「人格」なのだろう。
簡単に言うと、「因果」に微笑で応えるのが、上等の「答礼」だ。
史上、優れた魂≠有した人達は、すべからくこの様だった。
向山一門として、胸を張れる教育実践をしたい。
そう思って、教室で力を尽くしてきた、一人の教師のささやかな実践記録である。
心ある教師の仲間達に、御批正をいただきたい。
二〇〇六年 初秋
新潟市立中野山小 大森修校長最後の研究会にて 向山一門事務局長 /伴 一孝
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- 明治図書