- 序 /中洌 正堯
- 序章 『学びを紡ぐ共同体としての国語教室づくり』によせて
- T 学びを紡ぐ共同体としての国語教室づくりの条件
- 一 指導力についての教師の勘違い
- 二 管理的支配からの脱却 ――教室における対話的風土づくり
- 1 対話的風土づくり
- 2 小さな継続の営みの中で共有し合う喜び
- 三 「癒し」の空間づくりを基盤とした国語教室づくり ――子どもの心をケアする指導
- U 学びを紡ぐ共同体としての国語教室づくりの実際
- ――相互作用を重視した物語文の学び
- 一 相互作用を促す三つの対話
- 二 相互作用を促す読みの観点
- 三 読みの観点づくりまでの模索
- 1 子どもから学んだこと1…子どもから出発する読みの観点づくり
- 2 読みの系統づくり
- 3 子どもの初読の感想が導き出してくれた読み取りの観点
- 4 子どもから学んだこと2…生活の文脈を生かした読みの観点の必要性
- 5 子どもから学んだこと3…相互作用を促す読みの観点の実現
- 6 子どもから学んだこと4…個性的な読み取りを促す読みの観点
- V 共同の学びを促す子どもの読みの観点の形成と読みの深化の概要
- 一 単元名『伝え合おう、この感動を!…二部五年感動発見探偵団報告書を作ろう!』 教材名『大造じいさんとガン』(平成五年十月実践)
- 1 単元設定の理由
- 2 授業の流れ(総時数 十七時間)
- 3 子どもの学びの実際
- 1 孝史の学び/ 2 昭義の学び/ 3 はるかの学び/ 4 読みの観点を生かした相互作用によって促された共同体としての想像活動/ 5 教材が働きかけるものとの自覚的な対話の芽生え
- 二 単元名『賢治の世界にひたろう!』 教材名『やまなし』(平成六年十月実践)
- 1 単元設定の理由
- 2 授業の流れ(総時数 十四時間)
- 3 孝史の学びの実際
- 4 読みの観点を生かした相互作用によって促された共同体としての想像活動
- 三 単元名『君たちはどう生きるか』 教材名『海の命』(平成七年二月実践)
- 1 単元設定の理由
- 2 授業の流れ(総時数 十四時間)
- 3 孝史の学びの実際
- 四 相互作用を促す読みの観点づくりの成果と課題
- W 学びを紡ぐ共同体としての相互作用を活性化するための第一次の取り組みの重要性
- 一 読みの観点形成における教師の役割
- 1 真理子の二年間にわたる読みの観点の統合の様子
- 2 真理子の二年間にわたる読みの達成度
- 3 真理子の学びの実際
- 1 比喩表現に着目したメタ的方略の対話の芽生え――『大造じいさんとガン』の第一次/ 2 真理子なりの論理構造を持った対話の芽生え――『わらぐつの中の神様』の第一次/ 3 テクスト構造との豊かな対話の芽生え――『やまなし』の第一次
- 二 相互作用を活性化するための第一次の要件と課題
- おわりに
序
一九九六年刊行の『対話による説明的文章セット教材の学習指導』の序の末尾に、「今後も新しく出会う子どもたちと河野順子さんのさわやかな実践が、拡充、発展し、文学の領域においても本書につづく発表がなされ、科学性(客観性)と独創性の統合のありようが示されることを期待したいと思う。」と記した。その期待どおりに、この度、『学びを紡ぐ共同体としての国語教室づくり』が刊行されることになった。この書での国語実践の題材は、文学(物語的文章)であり、ここに、河野国語教室の研究実践のセットが誕生したことになる。
本書は、河野順子さん自らも述べているように、主に五年、六年の物語文の学びを通して、子どもの個性や実態に応じた読みの観点を設定していくことが、どのようにテクストと子どもとの読みを拓き、さらには、他者との対話を生み出し、共同体全体で新たな読みを創り出す可能性を拓いていってくれるのかについて、実践例をもとにして考究したものである。
「共同体」の中に教師も参画することは、「子どもも教師も共に学び手としてどう向き合っていくことができるのかという教育に対するパラダイムの転換」と述べていることからも明らかである。ただ,教師は当然ながら導き手としての役割がある。河野国語教室でのその役割の実際を二、三取り上げよう。
たとえば、まず国語教室づくりにおける教師の態度や意思決定に関する考察をたえずつづけていることである。また、「読みの系統づくり」(後の読みの観点に関係する)によって発達段階の目やすを得ていること、教師としての看取り、励まし、反省、ゆさぶり、助言、総じて子どもへの本気の関わり方をしていることである。また、「ペアペアスピーチ」「ノート作り」「学級通信や国語通信」「一日一頁音読」などの基礎指導を継続的に行っていることである。
こうした学習指導の延長線上に、「子どもそれぞれに応じた読みの観点」を形成するということがある。そのことの重要性を、一人の子ども(勤)の発言によって気づかされるのであるが、それらのいわば個々の読みを、共同体の創造的な読みとして紡ぎ、縒り上げていくさまが、本書では熱く語られている。
たとえば、孝史という子どもの場合である。想像力を喚起する力が弱く、表面的な読みにとどまりやすかった孝史は、「大造じいさんとガン」では、表現上の特徴である複合語、助詞、助動詞の使い方、とくに大造じいさんの心情を表す助詞、助動詞に注目する。うららという子どもは、残雪についての描写、説明に注目することによって、大造じいさんの心情を読み取っていったのであるが、孝史は、そのうららの読みに動かされる。「やまなし」では、二枚の幻灯の対比に関して教師からのゆさぶり(第二場面でのやまなしも食べ食べられる世界ではないか)があり、雄輝という子どもの「自分の生を全うして他の人に与えようとしている」という読みが生まれ、これがまた、孝史の心を動かす。このあたりは、共同体の創造的な読みの成立の中に、個の読みが一つの縒り糸として確かな位置を占めていくさまが窺われる。そして、次のような一つの到達とさらなる発展への教師の願いが、確かな説得力をもって迫ってくる。
六年最後の「海の命」の学習では、こうして二年間の間に獲得した読みの観点が統合され、孝史なりに読みを拓くことができた。そのうえ、孝史独自のこだわりとして「母の描かれている意味」にも着眼した読みを生成していくことができた。母に向かう読みは、孝史にそのまま、孝史自身が現実世界の中で対峠していかなくてはならない母との関係を呼び起こすこととなり、孝史のこれまでの世界意識を変革していく一つの原動力としてこれからの生活の中に生きて働く力となり得ることを期待する。
一つの縒り糸である個の読みと全体の織物である共同体の創造的な読みとは、互いに勁くする関係にあるといえる。そして、原則的には、読みは個に始まってたえず個に帰っていくものと考えられる。それゆえに、読みは「自分の生活との重なり」を必然的なものとする。右の記述にある「孝史自身が現実世界の中で対峙していかなくてはならない母との関係」といった生活との重なりは、「石うすの歌」の読みにおける恭子の場合は、次のようなかたちをとって現れる。
恭子自身、なかなか友だちとなじめず、一人ぼっちでいることの多い子どもであった。その寂しさが一人ぼっちになってしまった瑞枝の悲しさと結び付いたのであろう。そこで、恭子は、激しく心を揺り動かされたに違いない。瑞枝の観点から、テクストと出会う(個の読みの観点―引用者注)ことによって、恭子の生活の文脈が激しく揺さぶられた。そして、生活の中では、見つめたくない見つめられないでいたであろう、自己の内なる声が立ち上がってきたのだと思われる。
このように、導き手は「恭子の発表を聞いて、教室の中が一瞬しんと沈黙の世界となっ」ていく生活の文脈を読み取っていくのである。
河野国語教室の研究実践が、この生活の文脈を重視してきたことは、説明的文章の学習指導においても変わらぬことであった。それを学習指導の基本方式として、「第一次の取り組み」(第W章)において教育科学にしようとするのが最近の河野国語教室の追究である。「第一次の取り組み」が、説明的文章・物理的文章の学習指導に通底するものとして科学されるとき、「読むということ」の学習指導の総合が拓かれる。これが、河野国語教室の次なる課題であろう。学び手と向き合うかぎり、国語教室の生成発展に止むときはない。
平成十三年六月三十日 兵庫教育大学学長 /中洌 正堯
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