- まえがき
- T 国語科教育の「構造改革」がはじまる
- 一 「相対評価」から「絶対評価」に転換する
- 二 「喜怒哀楽中心」から「言語技術中心」に転換する
- 三 「覚えて答える」から「正しく繰り返す」に転換する
- U 「話すこと・聞くこと」の問題づくり
- 一 「言語技術」には習熟三段階がある
- 1 「言語技術教育」には三つの段階がある
- 2 「話すこと」の出題は〈言語知識〉に絞る
- 二 リスニングで〈言語知識〉を問う
- 1 「話すこと・聞くこと」は音声言語で出題する
- 2 スピーチ例を聞いて〈言語知識〉を指摘する
- 3 〈聞き方スキル〉には四段階がある
- 4 〈傾聴態度スキル〉の〈言語知識〉を指摘する
- 三 リスニングで〈聞き方スキル〉を発揮させる
- 1 〈要約聴取スキル〉でスピーチ内容を構造的にとらえる
- 2 〈要約聴取スキル〉でスピーチ内容をメタ認知する
- 3 〈情報聴取スキル〉〈批判聴取スキル〉を発揮させる
- V 「書くこと」の問題づくり
- 一 ペーパーテストで作文技術を発揮させる
- 1 作文問題に慣れる必要がある
- 2 採点基準を作文技術に置く
- 3 年に一度、もてる作文技術を発揮させる
- 二 作文技術の習熟度を総合的に評価する
- 1 〈一〇〇点満点テスト信仰〉から脱却する
- 2 条件を揃えてこそ到達基準が活きる
- 3 論述テストには「総合診断型」評価が相応しい
- 4 評価基準を「言語技術」の〈数〉に置く
- 三 「スキル学力観」に立ってみることが必要である
- 1 一度、「スキル学力観」に立ってみよう
- 2 チェックリストをもつ必要がある
- W 「読むこと」の問題づくり
- 一 「音朗読」にも明確な「言語技術」を提示する
- 1 音朗読には目的と必要性がある
- 2 音朗読の出題は〈言語知識〉に絞る
- 3 音朗読表現を構想させる
- 二 「詳細な読解への偏り」を打破する三つの改革方針を提案する
- 1 文学教材に「情報読み」「批判読み」を導入する
- 2 「主題読み」授業に三つの改革視点をもつ
- 三 「主題読み」で言語技術を使わせる
- 1 「主題読み」には三つの問がある
- 2 「論理」「心情」「形象」の三発問で授業を変える
- 四 「説明的文章」には三つの下位区分がある
- 1 説明的文章には三つの文種がある
- 2 構成指導や要約指導は「論説文」にふさわしい
- 3 「説明文」「記録文」では情報整理能力を培う
- 4 内容を再構成して視覚化する
- 五 「説明文的文章」でメタ認知能力を鍛える
- 1 「説明文」で樹形図をつくらせる
- 2 学年に応じて難易度を上げる
- 六 「説明的文章」の授業に「情報読み」を導入する
- 1 〈情報読み〉の典型は辞書である
- 2 〈情報〉は目的によって構成される
- 3 〈目的〉には内容・表現両面がある
- 4 〈情報読み〉の活動を分類する
- X 「絶対評価時代」の指導と評価、そして前提
- 一 到達基準をシンプルに伝え、何度も何度も繰り返し指導する
- 1 他人に迷惑をかけず、自分自身で食っていく
- 2 到達基準を明確にして、確実に全員に定着させる
- 3 「活動あって指導なし」を排す
- 4 「覚えて答える」現状を打破する
- 二 授業システムがなければ「絶対評価」には対応できない
- 1 お互いに評価し合うシステムをつくる
- 2 ノートを構造化する
- 3 赤ペン指導には五原則がある
- 4 赤ペン標語はできる範囲で行う
- 三 「絶対評価」の前提となる心構えが大切である
- 1 生徒に嫌われるべからず
- 2 説明責任は事前にこそ果たすべし
- 3 「虚」に視線を注ぐ
- あとがき
まえがき
二〇〇二年度が幕を開けると同時に、教育現場、特に中学校の教育現場は「絶対評価」と「結果責任」、そして「説明責任」にきりきり舞いさせられている。特に国語科の狼狽ぶりは、目に余るものがある。ある者は自らの授業に自信を無くし,ある者は「そんなものは不可能だ」と開き直る。そして、ある者は、「成績さえ上がれば生徒も保護者もクレームはつけてこないだろう」とばかりに実力以上の成績を生徒たちに与える。巷では、「成績バブル」「評定バブル」時代の到来だとも言われている。
こうなるのにはこうなるなりの理由がなくもない。
例えば数学科は、「絶対評価時代」を迎えても、あまり狼狽していないように見える。評価基準さえ明確にすれば、あとはペーパーテストでどれだけ点数をとったかのみで評価しているからである。数学科のように、指導事項がしっかりと体系づけられている教科であれば、「絶対評価」はむしろ歓迎されているようだ。これまでの九〇点以上が一〇人いるのに、そのうちの幾人かは評定5ではなく4に下げなければならない、といった、「相対評価時代」に常に抱いていた悩みがなくなったのである。
では、国語科はどうか。「相対評価」時と違い、評定人数に縛られなくなったことは数学科と同じである。実力のある生徒がいれば、誰に気兼ねすることもなく評定5をつけてあげられるようになった。しかし、国語科の教師は誰一人、「絶対評価時代」を歓迎していない。評価の基準をつくることができないからである。
二〇〇一年度末、どの学校でも「評定規準」「評定基準」を作成せよ、と言われたはずである。そしてそのとき、国研の「評価規準例」を参考にしながらトントン拍子に「評価規準表」「評価基準表」をつくっていく数学教師を横目に見ながら、ただただ「羨ましいなあ」とつぶやいていたはずである。数学科の先生があんなにもスムーズにつくりあげていくのに、自分はといえば、何を書けばよいのかさえわからない。国語科教師というのは、何と因果な商売だろうか、と。それでも、国研から提示された参考資料をもとに、なんとか「評定規準表」だけはつくった。しかし、「評定基準表」がつくれない。手も足も出ない。そもそも生徒たちが何をできたら到達目標を達成したと考えればいいのか、それがわからない。国語教師を何年も続けてきたというのに、この現実は何なのだ……。多くの国語教師が路頭に迷ってしまったのである。
ではなぜ、国語科はこうなってしまうのだろうか。その答えは、実はごくごく簡単なことである。数学科に当然のように存在する「指導事項の体系」が、国語科にはないのである。いや、ないと言っては語弊があるかも知れない。誰も「指導事項の体系」を意識することなく授業をしてきたのである。「ごん」や「メロス」の気持ちは読み取っても、どうすればその気持ちが読み取れるのかという原理を曖昧にした授業を続けてきたのである。
本書は、国語科の指導事項とは何なのかということを真剣に考えた一中学校教師が、国語科の定期テストの問題の在り方をフレームにして考えた結果としてできあがったものである。国語科のテスト問題について語る体裁をとっているが、その本質は、私なりに国語科指導事項を「言語技術」として捉えなおし、その体系を示すことにある。
内容は、以下の構成になっている。
まず、第T章において、「絶対評価時代」の国語科の在り方、テスト問題の在り方を総論的に論じた。
第U章では、「話すこと・聞くこと」領域について述べている。ただし、「話すこと・聞くこと」領域について述べ、その指導事項の体系を示しながらも、その力点は「言語技術とは何か」「なぜ、言語技術教育が必要か」という理念にある。
第V章では、「書くこと」領域について述べている。ここでは、「書くこと」の指導事項体系を提案すると同時に、「絶対評価」においてどのように「評価基準」を設定していくか、ということを具体的に述べている。「絶対評価」「到達度評価」の手法について、現時点での私の考え方を提案させていただくことに力点を置いた。
第W章は、「読むこと」である。前の二章同様、「読むこと」指導事項の体系として、音朗読、文学的文章教材について示した。説明的文章に関しては、私は非力のため、体系として示すことができていない。ただし、第W章では、指導事項の体系やテスト問題の在り方を検討すると同時に、これからの「読むこと」の授業の在り方を提案することに力点を置いている。
第X章は、「絶対評価時代」に向けて、私が取り組んでいる授業システムや、「絶対評価時代」に対応する考え方、「説明責任」の前提となる心構え等について論じている。
総じて、本書を通して読まれると、私の現時点での国語科授業に対する考え方、国語科の評価の在り方について全体像が理解される構成になっている。どうか、本書を通してお読みいただいて、ご批正いただければ幸いである。
私もまた、二一世紀の国語科教育づくりに参加しようと試みる一人である。
二〇〇三年四月 自宅書斎にて /堀 裕嗣
「絶対評価」「テスト」とありますが、数多くの言語技術を取り上げ、体系的にまとめています。さらに、テストのみならず授業を見直す上で重要な考えを示しています。
本書が絶版なのは勿体ありません。多くの国語教員に読まれることを願っています。
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