- 1 向山洋一全集全一〇〇巻刊行へのまえがき
- /向山 洋一
- 2 「先生に足りないのは統率者としての自覚です」学級崩壊の原因を端的に表した向山氏のその一言が私の人生を変えた
- /西尾 豊
- T 発達障害児への対応を学ばない教師は、犯罪行為を犯すのと同じだ
- 1 新任、新卒が荒れた学級を担任させられる「実践」
- 2 勉強不足の教師は、子どもの責任にする
- 3 技量の低い、無責任な教師が、子どもを非行、多重債務者に追いやる
- 4 我流は教え子の人生を大きく左右してしまう
- 5 ADHDの子を投げ出した算数問題解決学習の有名教師
- 6 算数の問題解決学習は障害を持つ子、できない子に犯罪的役割を果たす
- 7 過度な原理習得学習は子どもをスポイルする
- 8 なぜ子どもは「先生、何やるのですか」と叫ぶのか
- 9 微細運動障害(軍手二枚をはめた手)で算数セットを学習する一年生
- U 障害を正しく理解し、将来自立できる学力を保障する
- 1 子どもが将来自立できるぎりぎりの学力を保障するのが教師の重い責任である。医学の世界はその条件を明らかにした
- 2 ADHDのことをほとんどの教師が知らなかった時、若き女性の編集者が一冊の本を持ってきた
- 3 すぐれた教材指導法には、正しい原則が貫かれている
- 4 プロとして子どもの事実をつかむには
- V 口では立派! でも身障学級の子と手をつながぬ校長
- 1 障害のある子に本当の配慮をしている学校とは
- 2 多くの場合、授業技量を上げれば解決できる。ただし、モンスターペアレント、モンスターチルドレンには、学校全体の体制づくりが絶対必要だ
- 3 「良いつもり」が良くない指導―再点検のポイント
- 4 発達障害の子への対応と基礎学力の保障がすべてだ
- 5 子どもの事実が見えれば教育の課題も分かる!
- 6 身障学級の子と一度も手をつながない校長
- W 医学界が証明したペーパーチャレランの驚異の効果
- 1 ペーパーチャレランのものすごい“研究報告”
- 2 子どもを強くする“裏文化”“遊びのオリンピック”
- 3 慶應大学医学部精神神経科学教室の統合失調症の「訓練プログラム」は日本一になった。教材はTOSSの開発した「ペーパーチャレラン」だった
- 4 発達障害の子の人間関係力を育てるペーパーチャレラン
- X 翔和学園の特別支援教育が発信するもの
- 1 教師本来の仕事に全力投球すれば道は開ける
- 2 現代の奇跡、翔和学園の映像
- 3 日本教育技術学会は満員の七百名の参加で感動的にもたれた
- 4 ロンドン教育視察でみた“おどろきの教室”
- Y ズバリ答える向山洋一の特別支援教育Q&A
- Q1 クラスで一番できない子を、どのように指導したらよいでしょうか
- Q2 暴力・暴言が度重なる子に対して、どのように指導していったらよいでしょうか
- Q3 LDの傾向にあり授業に集中できない児童への対処法を教えてください
- Q4 自閉症かと思われる子(女子)がクラスにいます。現在六年生。この子へどう指導したらよいのでしょうか
- Q5 活動が遅い児童には、どのように対応したらいいのでしょうか
- Q6 ジャングルジムに怖くて登れない子の指導法は、どうすればよいでしょうか
- Q7 脳性麻痺の障害を持った子を伸ばしてあげるには、どうしたらよいでしょうか
- Q8 特殊学級から通級してくる自閉的傾向の子への対処法は、どうしたらいいでしょうか
- Q9 自分の子どもがいじめられていると心配されている保護者への対応を、どうすればよいでしょうか
- Q10 だだをこねる子に対して、どのように対応したらいいのでしょうか
- Q11 特別支援コーディネーターができましたが、学校としてどんなシステムを作ればよいでしょうか
- Q12 担任に暴言を言ったり、教室を抜け出したりする子への対応は、どうすればよいでしょうか
- Q13 やんちゃ君と発達障害の子とのトラブル。家族とどのように関わればいいでしょうか
- あとがき
- /大関 貴之・伴 一孝・甲本 卓司
1 向山洋一全集全一〇〇巻刊行へのまえがき
/向山 洋一
向山洋一全集全一〇〇巻が刊行されることになった。
これは、日本の教育界で初めてのことであり、他の分野でもほとんど耳にしない出来事である。
私が、小学校で三十二年間実践したことのすべて、千葉大学、玉川大学で十年余にわたって教えたこと、NHKクイズ面白ゼミナール、進研ゼミ、セシールゼミ、光村、旺文社、正進社、PHP、サンマーク出版、主婦の友社などで発刊した教材群(その多くは、日本一のシェアをとった)などが入っている。
すべての子どもの学力を保障するために、とりわけ発達障がいの子の学力、境界知能の子の学力を保障するために、慶応大学など多くの専門医と協同研究をしてきた成果でもある。
教育技術の法則化運動は、結成して一年で日本一の大きな研究団体となり、二十一世紀にそれをひきついだTOSSは、アクセス一億、一ケ月で七十七ヶ国からのアクセスがあるなど、ギネスものの無料のポータルサイトとなって、多くの教師、父母の方々に情報を提供するようになった。
TOSS学生サークルも全国六十大学に広がり、TOSS保護者の支援サークルも生まれている。
総務省、観光庁、郵便事業会社と全面的に協力した社会貢献活動もすすめてきた。例えば、「調べ学習」として、全国一八一〇自治体すべての「観光読本」(カラー版)を自費で作り、八〇〇余の知事、市、町村長からのメッセージをいただいている。
このような大きな教育運動の中で、多くの方々と出会い仕事を共にしてきた。波多野里望先生、椎川忍総務省局長はじめ、幾多の方々の応援に支えられてきた。
また、こうした活動を普及していく多くの編集者とも出会ってきた。
とりわけ、お世話になったのが、向山洋一全集全一〇〇巻のほぼ全部を創ってくれた江部・樋口編集長である。多くの方々に心から御礼の意を表したい。
この一〇〇巻が完成する時、二〇一一年三月一一日、一〇〇〇年に一度といわれる巨大地震が日本をおそった。
東北地方太平洋岸が壊滅的な被害をうけた。
向山洋一全集全一〇〇巻と共に、この東日本大震災のことも、この全集に含めておきたい。
どこよりもはやく、東日本復興の企画会議を招集し、今回百数十人から寄せられた「復興企画」の中から寄稿をお願いしたものである。
「TOSSの活動、願い、実行力」を具体的に示すものとして、後世に長く伝えられていくことと思う。
2 「先生に足りないのは統率者としての自覚です」学級崩壊の原因を端的に表した向山氏のその一言が私の人生を変えた
/西尾 豊
大卒で初めて担任した四年生のクラスは六月に完全崩壊した。
「西尾についてこれへん奴、俺についてこい!」
この言葉を発したのは、当時クラスで荒れの中心となっていたA君。そして彼に扇動され、男子二名、女子三名が教室を飛び出し、体育倉庫裏に立てこもった。
「もうあかん! 校長先生呼んでくる!」
そう言って教室を飛び出す子を、私は黙って見送ることしかできなかった。
小学校教員になることは高校時代からの夢だった。教育実習では担当した子どもたちからは別れの時に「西尾先生は絶対いい先生になるわ」と言われた。採用試験こそ受からなかったが、講師として採用され担任が決まった時には飛び上がって喜んだ。
希望に燃えて子どもたちの前に立った四月、子どもたちはシーンとして自分の話を聞いていた。本屋で立ち読みした『教室ツーウェイ』にあった「黄金の三日間」を少しは意識していたが、特別な準備をして挑んだわけではない。子どもたちに囲まれてちやほやされ、保護者からも「期待しています」と言われ、完全に思いあがっていた。「黄金の三日間なんて、自分には当てはまらないんだ」「自分は他の教師とは違うんだ」「この子たちを幸せにできるのは自分だけだ」、そんな不遜な思いのまま、思いつきの授業や学級経営を進めていた。配慮を要する子どもとしてA君ほか数名の名前が挙がっていたが、その子たちともうまくやれているつもりでいた。
ゴールデンウィーク明けの五月、A君と私のトラブル(ある約束を守れなかった)により、A君との関係が悪化し、A君がクラスの中で好き勝手な行動をし始めるようになった。最初こそ周りで様子を見ていた他の子たちも、A君を抑えられない私の不甲斐なさに見切りをつけ、男子数名が「ならば自分たちも」と勝手な行動をするようになってきた。
毎日起こる喧嘩、進まない授業。それでも「先生、がんばってね」と応援してくれる子はまだ多かった。正確には「応援してくれていた」というより「我慢してくれていた」のだ。しかし、その我慢もついに限界が来た。四月に「リーダーとしてやっていける」と言われていた女の子が「なんで私たちがこんなに我慢しなきゃいけないの!」と泣きだした。そして、A君の冒頭の言葉があった。
教室を飛び出したA君他五名は教務主任の説得で何とか教室に戻ってきたが、戻ってきた六名が私に向ける目は敵意に満ちていた。その後、荒れが加速度的に進行したのは言うまでもない。一学期の終わりごろには、A君の指示で他の男子四名が私の両手両足を押さえ、A君が私に殴りかかってくる、ということもあった。通知表を渡した時には、A君は私の目の前でその通知表をグシャグシャにし、「こんなの受け取れるか!」と言って私に投げつけてきた。七月には臨時保護者会も開かれ、私のクラスは「校内で一番問題のあるクラス」となった。
心身ともに疲れ果てていた七月のある晩、教材研究のために見ていたTOSSランドで、ある方の名前を発見した。それは大学時代の少林寺拳法部の先輩である堀川文範氏だ。数度しか話したことのない先輩だったが、見つけたうれしさもあり、自分の現状を書いたメールを送信した。
堀川氏からはすぐに返事が来た。そこには温かい励ましの言葉とともに「向山洋一氏の本を読むこと」「できればサークルで学ぶこと」などのアドバイスがあった。調べてみると家も近かったので、堀川氏のご自宅にお邪魔してたくさんの本を借りた。そこでサークルの誘いを受けるとともにもう一つ勧められたのが「向山洋一教え方教室」に参加することだった。その時は「話を聞くためだけにわざわざ京都から東京まで行くの?」と信じられない気持ちだったが、本を読んでみてもなかなかうまくいかない日々に悶々とし、藁にもすがる思いで教え方教室への参加を決めた。
その時の教え方教室は学級崩壊をテーマにした特設講座で、QAを印刷して持っていくことができた。そこで私は次のようなQを書いた。
クラスが荒れて授業が思うように進みません。荒れの中心になっているA君からは「お前の授業が分かりにくいんじゃ!」と言われます。自分の授業力がないのは何とかしなければいけないのですが、このような現状でどうやって授業を成立させていけばよいでしょうか。
当日、ドキドキしながらこのQを読んだ。向山氏は「同和などの問題はあるか」などの質問を少しした後、次のように答えた。
先生、駄目ですよ、そんなの言わせちゃ。「何言ってんだこの野郎」ぐらい言い返さなきゃ。先生に今足りないのは「統率者としての自覚」です。授業が下手だってやっていくしかないんだから。先生が引っ張っていくしかないんだから。
かなり厳しい口調だったが、なぜか心がスーッと軽くなったような気がした。これまでの指導を振り返れば、「統率者としての自覚」というキーワードがすべてに当てはまる。クラスの詳しい様子まではQAには書いていなかったが、向山氏は私の話す様子などを見て、瞬時にそれを判断したのだろう。
教え方教室以後、「クラスを統率する」ということを念頭に置き、堀川氏にアドバイスをもらいながら立て直しのプランを練った。夏休み中には書籍やTOSSランドを使って、算数の授業を中心に発問・指示を書きだした。
ただ、学校事情により残念ながら私は二学期以降、クラス担任を続けることはできず、教頭の勧めで講師を辞職することになった。その時は悔しくて悲しくて涙を流したが、当時のTOSS京都代表の平田淳氏は「チャンスだと思って力をためなさい」と言われ、サークルで模擬授業に挑戦することを勧めてくれた。
初めての模擬授業は、最初の指示を言っただけで頭が真っ白になった。その場に立ち尽くす私に平田氏は「もういいよ」と言われ、私は席についた。こんな状態で教壇に立って、子どもを統率できるわけがない。模擬授業に挑戦することで、「統率者としての自覚」というキーワードが「教師修業の必然性」に結びついた。荒れた時、子どもたちを不幸にした、という自覚はある。「これから受け持つ子どもたちにあんな不幸な思いはさせたくない!」、そう思うと、模擬授業で恥をかくことなど何でもなかった。
崩壊させた次年度、再び受け持ったクラスは四年生。「統率者としての自覚」を意識し、サークルでも模擬授業に挑戦し続けたことで、クラスの終わりには保護者から感謝の言葉をたくさんいただいた。
受け持つクラスが変わるたびに新しい問題は発生する。それでも基本的な方針は変わらない。「自分はクラスの統率者である。さまざまな協力を得ながらでも、絶対に自分がこのクラスを何とかする」、向山氏が示して下さった方針は、十年たった今も私を支える基本軸の一つとなっている。
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- 明治図書
- 具体的な例が多く、読みやすかった。2016/3/2640代、中学校教諭