- まえがき
- T 失敗事例こそ「成長のタネ」である
- 一 新卒時代の自分から手紙が来た
- 二 生徒との距離感覚を意識する
- 三 人とのかかわりの中で学ぶ
- 四 読書を自分の体験と結びつける
- 五 失敗事例を活かす学級経営力は〈自己対象化〉から生まれる
- U 失敗事例から学級経営の原理を導く
- 一 「個人の正義感」だけで動いてはいけない /森 寛
- 1 荒れた学校からのスタート
- 2 火のついたタバコを手にした生徒
- 3 対決
- 4 家庭訪問での意外な姿
- 5 学年主任の「息の長い指導」
- 6 私の「失敗」
- 7 「原則」や「建前」だけでなく
- 8 動ける者が、動ける時に、動けるだけ動く
- 9 生徒も人間 教師も人間
- 10 「個人の正義感」だけで動かない
- 二 学級通信で失敗しないために /石川 晋
- 1 教師の考えが生徒に伝わっていない
- 2 学級の様子が保護者に伝わっていない
- 3 教師の考えが保護者に伝わっていない
- 三 ギブ〈アンド〉テイク /田中 幹也
- 1 学級通信
- 2 言葉の根底にある想い
- 3 ギブ〈アンド〉テイク
- 四 他人のふんどしで相撲を取るべからず /對馬 義幸
- 1 何とかなるだろう
- 2 「最初が肝心」だったが
- 3 組織づくりでは
- 4 生徒指導では
- 5 結局
- 6 私の「失敗」
- 五 不登校生徒をどう捉えるか /山下 幸
- 1 統計数字に隠れている実態
- 2 初めての不登校〜若さゆえの失敗事例〜
- 3 よかれと思った適応教室
- 4 二度目の失敗〜遊び心の大切さ〜
- 5 卒業、そして新たな不登校生徒へ
- 六 学級経営失敗までの道のり /桑原 賢
- 1 なめられたくない
- 2 出会いの語りは綿密に
- 3 作文指導
- 4 男女別の座席
- 5 間違った指示は絶対に出すな
- 6 一学期半ばにして末期状態
- 七 多くの生徒に栄養を /板橋 友子
- 1 初めての担任
- 2 計画性のなかった学校祭
- 3 合唱に対する思いと見栄
- 4 最悪の結果
- 5 「初めて」に学ばなければならないこと
- 八 「特別扱い」が生んだ悲劇 /中村 貴子
- 1 必要とされたい
- 2 悲しい幕開け
- 3 休み続けるC君
- 4 先生が嫌いなんだ
- 5 担任バッシング
- 6 失敗の元凶
- 九 本物の「情け」と浅はかな「情け」 /小木 恵子
- 1 初めての中学校教諭
- 2 A子との出会い〜中学校教諭二年目〜
- 3 A子との出会い〜中学校教諭三年目〜
- 4 「お母さん、先生が来たから隠れなさい!」〜A子の万引き事件〜
- 5 「家の娘、卒業させないでください」〜A子の卒業〜
- 6 私の失敗を振り返る
- 7 失敗で学んだこと
- 十 無計画に動いてはならない /太布 智子
- 1 初めての担任
- 2 初めての学校祭
- 3 一枚の紙
- 4 怒りの矛先
- 5 私の「失敗」
- 6 準備期間前に
- 7 組織づくり
- 8 許してもらえる人間関係
- 9 無計画に動いてはならない
- V 学級経営力は教師のメタ認知能力である
- 一 学級担任には「メタ認知能力」が必要だ
- 二 「経験則」が教師を育てる
- 三 意図的に「実践」を集積・整理する
- 四 「S‐R」に陥ってはいけない
- 五 「メタ認知能力」を鍛え、「学級経営力」を鍛える
- あとがき
まえがき
ある日、自分が「教育実践」を語った文章を整理していて気がついた。
「これらの実践報告は、すべてが『成功事例』だ……」
「教育実践」を語る文章が現場教師の実践に役立つことを想定して書かれることを思えば、このこと自体はさして驚くべきことではないのかもしれない。しかし、私の教師としての成長は「成功事例」よりも、むしろその何倍もある「失敗事例」によってこそ支えられてきたはずである。とすれば、自分の書いた文章のすべてが「成功事例」を題材に綴られているということは、実は異常なことなのではないか。
本書は、私のこうした強い思いによって成立した。
教育雑誌、教育書には、様々な実践家の「成功事例」が所狭しと並んでいる。それを読み、若手教師は「いつか自分もこういう実践を」と夢みることになる。そして先達が「成功事例」から導き出した、教育活動の原理・原則を学んでいくことになる。その原理・原則に従って、自らの実践を改める。ある程度、効果が上がる。そこで多くの若手教師は、「おごり」に陥ることになる。これができるようになった、あれができるようになったと、ある種の成長の実感を得ることになる。しかし、私に言わせれば、それはただの「借り物」に過ぎない。
教師として生徒達に接していると、この指導は成功したなと思うこともあれば、この指導は失敗だったなと思うこともある。しかし、「今回は百%成功だった」「今度は百%失敗だった」ということはまずあり得ない。この点は成功だったが、この点を改めればもっと効果が期待できたかも知れないな、という事例こそが多くを占めるはずだ。どのような「成功事例」にも課題はあるし、どのような「失敗事例」にも三分の理があるからである。こうした自らの実践に対する分析的態度こそが、実は成長する教師としての正しい態度なのである。
私は先達から「教育実践」の原理・原則を学び、教育に取り組む思想や教育技術・授業技術を学ぶと同時に、自らの実践の失敗事例を謙虚に分析し、そこから独自の原理・原則を編み出すという発想が必要だと考えている。両者は車の両輪であり、どちらが欠けてもいけないと考えている。双方がスパイラルをなして絡み合う。それを一つ一つ自分なりに分析し整理していく。その過程でこそ、「教育実践」の原理・原則は自分なりに咀嚼され、「借り物」ではない「我が物」になっていくのである。
そのためには、@自他の「失敗事例」を分析する、Aなぜ失敗したのかを深く思考する、そしてBその結果として新たな自分なりの原理・原則を発見する、C発見した自分なりの原理・原則で先達の提示した原理・原則を斬ってみる、こうしたサイクルが必要である。あるときは自分の発見に酔い、またあるときは店やはり先達は偉大だ点と悟る、こうした主体的な思考が最も人間を成長させるのである。
本書は、三十代以上の「研究集団ことのは」メンバーが、若いときの「失敗事例」を語っている。その「失敗事例」から何を学んで今日があるのか、内省を語っている。本書が若手の教師にとって、少しでも成長の糧としていただけるなら、それは望外の幸せである。
二〇〇五年一月 自宅書斎にて /堀 裕嗣
-
- 明治図書