- まえがき
- T 「評論文」はこうして書かせる
- ステップ課 子どもの作文を評価せよ
- 1 まず観よ 読むべからず
- 2 句点は五〇〇円玉と思え
- 3 「テニヲハ」は〇(マル)一つなり
- 4 主張をこそ読め
- ステップ嘩 視写・聴写はシンプルにしつこく
- 1 まず覚悟を決めさせる
- 2 視写・聴写指導における片々の技術を使いこなす
- 3 教師が書けるようになればよいのです
- 4 演題『鶴が渡る』の評論文を書きなさい
- ステップ貨 基本型はシンプルにしつこく
- 1 まずはこれ「結論→問→根拠」
- 2 「IF思考」で学習技能はのびる
- 3 これができたら大丈夫「結論→問→根拠→仮定→例示」
- 4 すぐ使える基本文型による短作文指導十例
- ステップ迦 他教科で修業をつませる
- 1 ノート見開き二頁で学習内容をまとめる
- 2 ノートはうっとりするぐらいきれいに仕上げる
- 3 レポートを書けるようになると子どもがかわる
- 4 国語のレポートは評論文の第一歩である 実物公開
- ステップ過 プロット指導@ 教師編
- 1 プロットをたてると授業のうでがあがる
- 2 まず詩のプロットをたてよう
- ステップ霞 プロット指導A 児童編
- 1 子どもに教師のプロットを公開する
- 2 これが言えたら名人 成功まちがいなし!
- 3 独創的なプロットをこそ評価せよ
- ステップ蚊 熱中! プロット審査
- 1 プロット審査の基本は「読みたいか」である
- 2 プロット審査を審査する
- 3 教師のプロットを公開する
- ステップ俄 短い教材で評論文を書かせる
- 1 実録 『イナゴ』(まどみちお)の授業と評論文
- 2 実録 『風景 純銀もざいく』(山村暮鳥)の授業と評論文
- 3 実録 『ジャボン玉』(ジャン=コクトー/堀口大学)の授業と評論文
- 4 実録 『鶴が渡る』(新谷彰久)の授業と評論文
- ステップ峨 長文文学教材で評論文を書かせる
- 1 実録 『おはじきの木』(あまんきみこ)の授業と評論文
- 2 実録 『川とノリオ』(いぬいとみこ)の授業と評論文
- 3 実録 『大造じいさんとガン』(椋鳩十)の授業と評論文
- 4 『やまなし』(宮沢賢治)の授業と評論文
- ステップ我 評論文の最終形態は自由研究である
- 1 なぜ最後に「自由研究」なのか
- 2 評論文によって子どもの力はここまでのびる
- 3 実録 『EMは地球を救う』の授業
- U 「分析批評」の授業とその可能性
- 1 感動は授業によって創られる
- 2 向山型「分析批評」の授業の原理原則は何か
- あとがき
まえがき
「分析批評」の授業は、討論の授業と言うこともできる。言葉を根拠とした論争のある授業である。
「分析批評」の授業を実践すると、まず子どもがかわる。熱中して討論に参加する。ノートにビッシリと自分の考えを書いてくる。そして、その熱気をおびた変容は、教師をかえていく。
のめりこむように追試する。それら先行実践のすばらしさを自分の力であるかのように錯覚してしまう。
しかし、あるとき、先行実践と己との間に存在する天と地ほどのひらきに愕然とする。
いったい何にそれほどのひらきを感じるのか。
討論の様子か。
いや、ちがう。残念ながら、向山氏の著作からも石黒氏の著作からも、あの討論の授業の本質の部分が伝わることはない。したがって、その差に気づく者は多くない。少なくとも冨山は気がつかなかった。
発問づくりか。
これもちがう。幸か不幸か、法則化運動の財産として多くの実践が発表されている。追試ができるうちは、発問づくりに悩まなくてすむ。もっともここで悩める方なら全国区の実践家になっているだろう。
では、いったい何が天と地ほどちがうのか。正確に言えば、何が天と地ほどの差だと認識できるのか。
評論文である。
向山学級、石黒学級、大森学級……。これらの学級の児童が書いた評論文を読む。その量だけでなく、質のたかさに圧倒される。ひるがえって自分の学級の児童の評論文を読んで愕然とするのである。
それは鋼鉄製のハンマーで頭を思いっきりひっぱたかれたような衝撃であった。
向山学級の評論文集を持つ手がふるえた。『子どもの評論文』(大森修著・明治図書)を読む目がかすんだ。自分の教師としての力量の低さにふるえ、自分の教え子たちへのすまなさに涙があふれた。
なぜこんなにもちがうのだ。なぜ俺には書かせることができなかったのだ。なぜ、なぜ、なぜ……。
そんな思いだけが頭のなかを駆け巡った。
あれから十年。
今なら朧げながらもその原因がわかる。そして、自分なりに評論文を書かせることもできるようになってきた。
なぜか。
向山学級と大森学級における評論文指導(に関わると思われる内容)を追究したからである。
その追究のなかから得た結論は次の二つである。
まず第一に『「分析批評」の授業をしただけでは評論文は書かせられない』ということ。
第二に『評論文はだれにでも書かせることができる』ということである。
この両者は一見矛盾しているかのように思われるだろう。
しかし、矛盾はしていない。どちらも事実である。
「主張なき者に著書はなし」とは向山洋一氏の言葉であったと思う。
本書が世に問うのは、まさにこの二点なのである。
とくに後者の内容こそが本書の最大の主張となる。
「分析批評」の授業の最大の成果は評論文にある。「分析批評」の授業以外にも、討論の授業を導く手法はあるだろう。しかし、評論文は「分析批評」の授業特有の分野である。そして、評論文を書けるのなら、感想文も報告文も生活作文も書けるようになる。
作文指導に悩んでいる教師は(私をふくめて)少なくない。
そんな方々と原稿用紙を前に頭をかかえている子どもたちにとって、本書が少しでも役に立てば幸いである。
本書は、第一回分析批評講座に提出された冨山のプロット案を江部満氏が認めてくださったおかげで完成した。感謝の気持ちでいっぱいである。
一九九八年四月 TOSS「分析批評」授業研究会 /冨山 一美
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- 明治図書