- まえがき
- T 向上的変容を保証する
- 1 向上的変容を保障する授業とは<その誕生の経緯と骨格>
- 幸運なスタート/ 古本の大著を求める/ 本質的理解を求めた新卒の頃/ 古本から得た大きな示唆/ 「向上的変容」論の成立/ スイミングスクールと音楽の授業/ 「向上的変容論」の構造図/ 「向上的変容論」の三要素/ 向上的変要の連続的保障
- 2 向上的変容を保障する実践理論<国語大好き人間の育て方>
- 国語大好き人間を育てるには/ 指導計画が長い場合の農淡、緩急
- U 「息をしているリンゴ」(小4)の実践<確かな読みの力を鍛える>
- 授業前の風景/ すぐ発間/ 命だけは助けてください/ 簡単でいい/ 二つを一人で言う/ いい読み方だね/ 「このようにして」とは/ 難しい言葉で「鮮度」/ まとめて書いてあるのはどの段落か/ 子どもの解/ すべて正しいか/ 証拠をさがせ/ 発問の修正/ 全員参加の一手/ 理由を述べよ/ 学校に来て良かったな/ 間違えることは恥ずかしいことではない/ 段落の検討/ でたらめに書け/ いくつか/ 検討方法の検討/ 六つは間違い/ ずばりと言う/ 簡単に賛成しない/ 「酸素」と「二酸化炭素」は分けるか、分けないか/ わかんないのがおりこうさん/ ずれの修正/ 答えは全部本に書いてある/ 本題に戻る/ 解の再確認/ さりげない束ね/ 三つ派に賛成の考え/ 教師の解を示す/ 解の解説/ だから国語の勉強が必要なんだ/ なぜ鮮度を保つことができるのか/ ノート作業と個別確認/ ノート指導/ 小さなこだわり/ 消しちゃだめなんだ/ チャイムで終了/ 授業後
- V「渡り鳥のなぞ」(中1)の実践<硬派の授業・攻めの授業>
- 1 授業始めの一〇分間
- 発声にこだわり中学生を鍛える/ 形式段落に番号を振る/ 問題提起の段落をつかむ/ 「鳥類の能力」の二つの解
- 2 「なぜか」が述べられない中学生
- 三種の解の択一を迫る/ 自分の立場を決めさせるしつけ/ 深沢先生の分析と解釈/ なぜか、という理由の吟味/ 私の収拾策「説明」
- 3 「指示」の表示と技術
- 「問題!答」の対応の理解度/ 「まだの人?」という問い方/ 「答は一致すると思うか?」ほか/ 「答」の部分の誤答の指摘作業
- 4 「渡り」をする理由は何段落までに
- C段まで、という解の検討/ 対立はしたが「説得」ができない/ 一つの束ね、決着、そして進行/ F段までとする誤読の解決
- 5 「話し方」の問題を中心に
- 「渡り」の理由の段落としてはCもFも誤りであると「束ね」ること/ 「渡り」をする理由は、D段までか、それともE段までか
- 6 「束ね」と「しめくくり」を中心に
- 授業の「束ね」と「しめくくり」/ 変容指向と説得技術/ 「渡りの理由」はいくつあるのか/ 「最後の束ね」と「まとめ」/ 書き加えておきたいこといくつか
- あとがき
まえがき
我々の日常的読書生活の九五%以上は「説明文」に関するものである。新聞、雑誌、パンフレット、広告、書信、文書等々の一切はいわゆる「文学」ではない。すべて説明文である。
文学に親しむという生活も皆無という訳ではない。電車などでは小説を読んでいる人の姿もよく見かけるし、子どもの大好きな漫画本もストーリーそのものは文学に近いと言えよう。少なくとも説明文ではない。しかし、日常の読書生活全体から見ればそれらはやはりごく一部の人、一部の活動に限られると言える。
だから、初等、中等教育においては説明文の読み方の指導にこそ力を入れるべきが妥当であるのに、現実はその反対である。説明文の読解指導の実践は決して多くはない。実践人が書いている本も、研究者が書いている本も断然文学教材に関するものが多い。
これは、基本的には子どもの二-ズに応えた現象ではなく、大人の好みを反映させた現象と見るべきである。そして、これはやはり望ましいことではない。子どもの立場、子どもの現実に目を注げば、説明文の指導にこそ力を入れるべきなのである。
さて、説明文の授業の不振は、このような教師の好みに合わないということが最大の要因と見られるが、もう一つ、よい解説書が少ないということも理由の一つである。本書は、その意味ではきわめて珍しい書物の部類に属することになるだろう。この本は大きく三つのパートからできている。
第Tパートは、私の持論である「向上的変容の保障」という授業論の基本的性格を簡潔に述べたものである。教育も授業も、指導も、つまりは子どもを「よりよく変える」ことがその狙いである。教育をするということは、子どもをそのままではなくもっとよくするということである。指導を加えるということは子どもをもっとよい状態に変えていくことである。授業をするということは、授業によって子どもをよりよく変えていくということである。このような前進的指向性を私は「向上的変容」というキーワードで括ってきたのである。授業をする以上、授業を受ける前の子どもの状態と、授業を受けた後の子どもの状態とに何らの変容が見られないとしたら、一体その授業には何の意味があったというのだろう。たったの一時間で、そんなに子どもが変わるはずがないという人があるが、それは狡猾な言いのがれである。授業の一時間、一時間は、それぞれに明確な指導目標を立てて行われているものである。それを達成しないことが是認許容されるなどということがあってよい筈はない。
いろいろな教科のある中で、国語科の授業は最も「向上的変容」が曖昧である。何を教わり、どんな力を形成されたのか、どうも一向にはっきりしないのである。私はそういう状態に批判を加え、私が目指すあるべき授業の姿を実践によって追求してきた。第Hパート以下に実例によってその実践を示した。
第Uパートは、小学校四年生を対象とした授業であるが、子ども達への全ての私の働きかけが詳細に書かれている。
そして、その一つ一つの発問や、子どもへの指示や、あるいは子どもの反応への評価などが、どのような意図の下になされ、どのような成果をもたらしたのかを、詳細精緻に分析し吟味を加えている。これまでも、このような授業についての徹底的な分析を試みるという例がなかった訳ではないが、おそらく今までのどのような実践分析に比べても、勝るとも劣らぬ精度でそれがなされていることに、本書の読者は頷いてくれるに違いない。
そのような納得を通じて、説明文の読解指導というものがどのように進められていくべきか、かということが自ずと会得されていくことと思う。
何をこそ指導すべき
第Vパートは、中学生への説明文の授業である。六年生の教科書と比べるとずっと文章の文字量が増えていることに気づくだろう。中学校では、生徒にとって本当に抵抗となり、障害となっている表現箇所についてのみ重点的な指導を加え、あとは生徒自身の読みの力に委ねていかなければならない。
私は、小学校の教師だけを続けてきたのだが、元々は中学校課程の出身であり、年に一、二度は中学校にも招かれての授業をしている。これもその内の一つである。
一九九八年四月二十八日 函館の春陽を窓辺に受けつつ /野口 芳宏 記
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- 明治図書
- 野口先生の他のシリーズに出会い、説明文に関するご意見を是非拝聴したいと思いましたが、絶版ということで残念に思っています。2011/12/29