- はじめに
- 序章 毛筆の線表現
- 1 線表現と個性
- 2 毛筆の線表現
- 3 線とはなにか
- 4 わたしの願い
- 5 この本の内容と構成
- 第1章 絵日記の線表現から子どものこころを読み取る
- 1 子どものこころが見えない苦しさ
- (1) 空っぽになってしまった教室
- (2) 「三つの命」を見つめる
- (3) ひよことともに
- 2 絵日記で子どものこころを見つめる
- (1) 絵の線表現にあらわれる子どものこころ
- (2) こころとこころを結ぶ絵日記
- 第2章 多様な線表現をこころみる子ども
- 1 子どもの多様な線表現
- (1) 1歳6か月から2歳9か月の玲子ちゃんの絵
- (2) 一本線の人物画――3歳の瑛子ちゃんの線表現
- (3) 毛筆で人物を写生――10歳の紗緒ちゃんの線表現
- 2 こころに思いうかべて描く線と見て描く線
- (1) こころに思いうかべて描く――4歳の佳恵ちゃんの線表現
- (2) 写生しながら描く――9歳の千寿ちゃんの線表現
- (3) こころをこめて線を描く――4歳児の毛筆画
- 3 線の冒険 ――1年生の線の抽象的な表現
- 4 円,三角,四角(○,△,□)で描く大型絵巻
- 第3章 いのちの躍動を表現する毛筆絵巻物の実践
- 1 毛筆による個性的な絵巻の表現
- 2 形の基礎教育
- (1) いのちの躍動を線であらわす
- (2) 三原形(○,△,□)で形をつくる
- (3) ダイナミックな画面構成をする
- 3 色の基礎教育
- (1) 白と黒の美に気づかせる
- (2) 陰影よりも濃淡をつける
- (3) 三原色(赤,黄,青)で混色する
- 4 絵巻物をつくる
- 1 5歳児の「どうぶつえん」絵巻物 ――○,△,□で大胆に描く
- 2 6歳児の「1ねんせい」絵巻物 ――形のちがいに気をつけて描く
- 3 9歳児の「東北の旅」絵巻物 ――画面構成を考え線の表現を工夫する
- 4 10歳児の「明治村の旅」絵巻物 ――画面の移り変わりの描き方を工夫する
- 5 2年生の「絵巻の魔法」 ――夢の世界を描く
- 6 2年生の「だいこんさんえまきもの」 ――総合的な学習で
- 7 4年生の「かさこじぞう」の絵巻物 ――国語・オペレッタ・図工を総合的に
- 8 5年生の「大仏絵巻物」をつくる ──鑑賞と表現をつなぐ
- 9 大学生の「二十歳の自叙伝絵巻」 ──次の世代に絵巻表現を伝える
- 第4章 「子どもの線」の指導方法の変遷
- 1 毛筆画教育を推進した岡倉天心
- (1) 学校制度創始時代からの美術教育の問題点
- (2) 今日の美術教育の問題点
- 2 明治時代開智学校における等々力茂登太郎の美術教育
- (1) 開智学校資料の歴史的・教育的価値
- (2) 等々力茂登太郎が開智学校で学んだこと
- (3) 等々力茂登太郎が開智学校で教えたこと
- 第5章 子どもの個性的な線表現を読み取る
- 子どもの線を読み取る
はじめに
「絵を描くことを嫌う子どもや,絵を描かない子どもはどうすればいいのでしょう」と,先生やお母さんから相談されることがよくあります。絵は実物そっくりに写実的に形と色を上手に描かなければならないと多くの人が思い込んでいるようです。わたしもそのような苦い体験をしてきました。
今から40年前,二十歳のわたしは神戸大学教育学部の薄暗いアトリエで冷や汗をかきながら石膏デッサンの授業を毎週受けていました。友だちは写実的に立体感がうまく描けていましたが,わたしはいくら努力しても上手に描けず,のっぺりして画面が黒くなるばかりでした。授業を受けるのがだんだん苦痛になり,また,教師になるつもりもなかったので退学すると決心して,朝早く,自分の荷物を取りにアトリエに入りました。そこで,学生たちが汚したデッサンのパン屑を掃除される,美術科教育担当の上野省策先生とはじめてお話しました。「君が,石膏デッサンを黒々した輪郭線で描く学生か。美術副専攻の実技試験の折,先生方はデッサンのできない学生は困るので,不合格にしたほうがいいという意見が多かった。しかし,君の線がよかったので合格にするよう僕は主張した。陰影画法で描けなくても,君の線は版画に生かすことができる。君は自分の線をだいじにしなさい」と,言われました。上野先生に励まされ,わたしは写実的な描写は上手にできませんでしたが木版画と銅版画,さらに『日本の戦後美術教育史』に関する論文を指導していただいて卒業しました。
神戸市の小学校に勤めはじめてからも,わたしは子どもの絵を持って上野先生を訪ねました。時には,先生が小学校へ来てくださって,一人ひとりの子どもの線の特質を捉え,声をかけてくださると,子どもの表情は自信に満ちて輝き,すばらしい絵を描きました。形はゆがんでいても一本の線にこころを込めて描く子ども達でした。
神戸大学を退官された上野先生は東京の自宅2階のアトリエで油絵を制作され,時には,墨を擦って書と画を楽しんでおられました。わたしが訪ねたとき,先生の4歳と10歳のお孫さんたちが毛筆に興味をもち,目の前でさまざまな線を描いて見せてくれ,毛筆の線表現の多様さを学びました。
わたしは子どもには写実的に描く力よりも,こころの躍動感を素直に表現する力を培いたいと考えて小学校で実践しました。宮城教育大学に転任して驚いたことは,学生の多くが絵を描くことを嫌い,人前では描きたくないと言うことでした。今,勤めている奈良教育大学の学生も授業のはじめには同じことを言います。受験勉強に必要でない美術は,若者の生活にも無関係で関心をもっていないのです。美術嫌いのまま教師になると,さらに美術の嫌いな子どもを増やすことになります。美術の中でも特に絵を描くことは生涯学習としても重要なことです。
外国から美術教育の方法が導入され,日本の子どもの造形表現はさまざまに変化してきました。なぜ百年ほど前に廃れた毛筆画を21世紀のいまの子どもと大学生が学習するか疑問を感じる方も多いと思います。しかし,日本の伝統的な美術の良さを見直し,子どもの個性を育むためには,一人ひとりの子どもがこころを込めて真剣に一本の線を生み出すこと,これが造形表現のもとになります。各自の線の特質を知るには毛筆を使うのが効果的です。
この原稿を書き進める中で多くの人からご指導とご助言をいただき,子どもから多くのことを学びました。特に,東京大学内地研修でお世話になった稲垣忠彦先生には長期にわたってご指導と励ましのことばをいただきました。旧開智学校事務所の方々から貴重な資料を見せていただくことができました。
出版にあたっては,明治図書の三橋由美子さんのご支援をいただき,原稿を書く途中で幾度も投げ出しましたが,気長く導いていただきました。
ここに記して,こころより感謝申し上げます。
この本は,いまは亡き恩師,上野省策先生のご霊前にささげます。
2003年4月 /梶田 幸恵
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- 明治図書