- はじめに
- 幼児の自然遊びの意義と方法
- 1 孤立化する子どもたち
- 2 なぜ,自然遊びなのか
- 1 幼児の発達の過程と遊び
- 2 子どもにとってよい自然環境とはどう考えればよいのか
- 3 子どもにとってよい刺激とは
- 1 実践の中から考える
- 2 実践の方法
- 4 まとめ
- 庭園・地面遊びの実践
- 砂場で遊ぼう
- @ いしさがしあそび
- A だれの手か
- B このゆびだれだ
- C ぽうたおし
- D かくしたしなもの
- E すなやまコロコロ
- F どのやまからころがるか
- G ちいさなおとしあな
- H すなばのかくれんぽ
- I おだんごのなかみ
- 地面に描いて遊ぼう
- @ おえかきジャンケン
- A くにとり
- B じんちとり
- C まる・ばつじんとり
- D じんとりこいし
- E ひこうきをおとせ
- F いしとりあそび
- G しかくでジャンケン
- H サイコロジャンプ
- I ジャンケンせんびき
- ビー玉で遊ぼう
- @ ビーだま
- A かっちんたまとり
- B あないち
- C ビーだまうち
- D ビーだま あないれ
- E ビーだまあて
- F ネズミをつかまえろ
- ケンケンで遊ぼう
- @ いしいれ
- A かかし
- B いしけり
- C ケンパ
- D ケンケンがえ
- ワイワイみんなで遊ぼう
- @ なみとびてんごく
- A いっぽんばしわたろう
- B ますいれ
- C どこゆくの
- D ひっこしあそび
はじめに
子どもたちが自然の中で夢中になって遊ぶ姿は,だれが見ても楽しく映るものです。
しかし,子どもたちが本当に自然の中で自分のものとして夢中になって遊びに興じているかと考えますと,少々疑問も感じます。
大人は,子どもにとってよいと思う自然活動を多く用意し,展開をしますが,残念なことに,すべての活動に子どもたちが積極的にかかわっているのかと見ますと,そうではなく,大人の願いだけが先行して活動を展開している場面によく出会うことがあります。
ここで,ルソーの『エミール』の一節から,子どもと自然とのかかわりについて考えてみます。
「自然を見よ。そして自然が教える道に従ってゆけ。自然は絶えず子どもを鍛える。自然は,あらゆる試練によって子どもの体を強くし,早くから苦痛に耐えることを教える。これが自然の法則である。諸君は,なぜこれに逆らうのか。この法則を曲げようと考えるのは,自然の営みをぶちこわし,自然のせっかくの心づくしに水をさすものである。大切に育てられた子どもは,そうでない子どもより死にやすいのは経験の示す通りである。
度を過ごさない限り,子どもに体力を使わせないでおくよりも,どしどし使わせた方がかえって危険が少ないものである。
やがて彼らが忍ばねばならない苦痛に早くから彼らを慣らしておくがいい。気候の移り変わりや,その不順さに慣れさせ,飢え,喉の渇き,疲労を経験させるがいい。多少の危険があってもためらうにはおよばない」(世界教育学選集『エミール1』明治図書刊より摘記)
少々過激とも思える文章ですが,このことは決して暴論ではなく,私たち大人が,子どもたちの発達の過程で考えなくてはならない問題を多く提起しています。
例えば,ルソーは厳しい試練という言葉を使っていますが,この厳しい試練とは,大人がむりやりに作り上げるものではなく,子どもを自由に自然の中で遊ばせることによって,石につまずき,足をすりむき,その苦痛に耐えることを学んだり,気候の変化によって体験する多くのことから,子どもなりにその処置の方法を体得していくのだと言っているのです。
そこで私は,「幼児の自然遊びの意義と方法」について考えてみることにしました。
この本では,子どもたちの最も身近な自然環境である園庭や地面で遊ぶことによってルソーの言う,暑い夏には強い陽光の下で,寒い冬には冷たい風の中で短時間でも遊ぶことで,自然が絶えず子どもを鍛えさせることを感じさせたいのです。
そのためには,子どもたちが夢中になる遊びを園庭や地面で展開しなければなりません。子どもたちが寒さから身を守るために夢中になって体を使うことにより,「度を越さない限り,子どもに体力を使わせろ」につながるのです。
園庭や地面遊びの実践では,数多くのゲームを紹介しましたが,これはすべての幼児ができるというものではありません。その子どもができる範囲で楽しむようにすることが大切です。自分の理解できる範囲だからこそ,夢中になって遊びに取り組むことができるのです。
また,各ゲームの遊び方の後ろに「ひとこと」として,私の感じたことを書いておきましたので,参考にしてください。
子どもたちにゲームを教えるのではなく,共に楽しむといった関係を大切にして遊びを扱ってください。
/水野 豊二
-
- 明治図書