- 著者インタビュー
- 特別支援教育
特別支援教育ということばが市民権を得られるようになったのは昨今だと思います。初任から特殊教育、通級による指導に関わってきた私ですが、まさか自分が退職するまでに発達障害のある子どもたちにこれだけ日が当たる時代が来るとは思っていませんでした。驚きです。同時に、この時代の変革期に仕事をさせていただける幸せを感じています。そして、拙くても自分たちの手で特別支援教育の本質を考えながら、特別支援教育を創っていくことが大切だと思います。そのための、現場からの愚直な発信として、今回執筆いたしました。
日々の暮らしの中で、子どもたちとの「人づきあい」を通して、時には向き合い、時には寄り添いながら進んでいくことだと考えています。人間関係の中で、必要な場合に、当たり前の支援をさりげなくできること、障害の有無は無関係に、支援を要するどの子どもたちともつきあっていけることだと考えます。
通級による指導は、週に1回だけあるいは月に1、2回という決まった時間だけ子どもたちと共に過ごす教育の形態です。ですから、子どもたちと長時間に渡って一緒に過ごす立場ではありません。つまり私は、子どもたちの「暮らしの1ページ」をほんの少しだけ共に過ごす立場です。ただし、通級による指導は長期に渡る場合もあり、子どもによっては幼児期から小学校卒業まで続けて関わることもあります。
それらから考えると、時間的にはそれほど密ではないけれど、子どもたちと長い期間にわたってつきあうことで、子どもたちの成長や「その子らしさ」が見えてくることがあると思います。また、たまにしか子どもたちと会わないことは、それほどマイナスというわけではなく、たまにしか会わないから見える子どもの姿、あるいは、たまにしか会わないから見なくてよい子どもの姿があると思うのです。子どもをそのように見つめられる通級による指導のメリット、おもしろさを大切に子どもとつきあっていきたいと考えています。
このことばは、川崎医療福祉大学の青木省三先生のご著書のタイトルにあったものです。若かった頃、私の師匠、片倉信夫先生(かくたつグループ)から
「自閉症ということばの使用を自分に禁じてみること。自閉症の子どもを自閉症としてみないこと。」
といったご指導をいただきました。それ以後「障害としてみる」「障害としてみない」という2つの見方のバランスにずっとこだわって仕事をしてきたつもりです。このバランスが崩れると、例えば、友達と関わりたくて何度も何度も同じ関わり方をしていく子どもの姿を単に「こだわり」「パターン」だと捉えてしまい、その子どもの心=内面が見えなくなる愚を犯してしまうように思うからです。
障害の有無にこだわらず、どの子どもも暮らしやすく、学びやすくなるために、当たり前の支援ができる園や学校が増えたら良いなと思います。
そのためには、医療・福祉・心理などの専門家の方々とチームを組みながら、しかし、実際に子どもと関わりつきあっていくのは園や学校現場であることを大切に、そして楽しみながら良い仕事ができればと感じます。