- 著者インタビュー
- 道徳
例えば昨年11月の文科大臣からのメッセージ(いじめに正面から向き合う「考え、議論する道徳」への転換に向けて)にもあるように、道徳授業にありがちだと言われていた(「いじめは許されない」ということを)「言わせたり書かせたりするだけの授業」のままでは、子供にとっても教師にとっても「白々しい」だけで、「自らが時と場に応じて望ましい道徳的実践ができるような内面的資質を高めること」は望めません。道徳的価値を自分との関わりで捉え、切実感を持って学習する、主体的な学びが求められているのです。
Q1で述べたような「主体的な学び」への転換のための「質の高い多様な指導方法」の確立が求められていますが、その一つとして示された「道徳的行為に関する体験的な学習」の第一に、役割演技が挙げられています。
人は、どんなときに自分の生き方を変えたい(変わった)と思えるのでしょう。一つは、今までと違う役割を取りたいという思いに突き動かされたときであり、もう一つは、今までと違う役割を実現したときのよさを実感できたときではないでしょうか。よさとは、道徳的価値のよさです。平成28年の報告註) には、「(道徳的)問題場面を実際に体験してみること、また、それに対して自分ならどうするかという問題解決のための役割演技を通して、道徳的価値を実現するための資質・能力を養うことができる。」(( )内は早川)と述べられているように、道徳的価値のよさを、他者から教えられるのではなく、演じることを通して自分に引きつけて考え、実感的に理解する指導法と考えます。ですが、自分に引きつけて考えられるということは、単なる演劇とは違う「生」の衝撃を受けることも、忘れてはなりません。本書では、そのよさと共に、恐さについても述べています。両面を正しく理解していただいたうえで、真に意味のある効果的な活用をしていただきたいのです。
本書で紹介した事例をもとに、お話しします。「わたしたちの道徳」にある「およげない りすさん」を資料にした授業です。(本授業では、演じることのマイナスの衝撃に配慮して、りすが動物たちに拒否される場面は、椅子をりすに見立てて演じました。詳細は、本文をご覧下さい。)
りすの悲しみに気付き、島に渡って遊んでも楽しくなかった動物たちが、島に渡った翌日にリスに出会う場面を、役割演技で演じました。動物たちはりすに謝った後、亀のかめ吉はりすのりす子を背中に乗せて泳ぎはじめます。途中、疲れて沈みかけても諦めずに泳ぎ続け、潜りはじめると、次々に、動物たちの背中のリレーが始まります(「自己の生き方についての考えを深める」以下B)。この後の話し合いで、動物たちは、皆で遊びたかったから諦めなかったこと、りす子が、「少しも怖くなかった」のは、かめ吉がゆっくり泳いで、りす子に波がかからないようにしたためであったことが明らかになりました(「道徳的諸価値の理解」以下A)。この後、島で皆で楽しく遊んだ後、疲れた体でも、りす子を背中に乗せてリレーしながら帰路につく動物たちが演じられ(B)、話し合いで、「リス子が泳げないのは、かめ吉が木登りが苦手なのと一緒。今度はリス子が教えてくれる。」(A)と観客から解釈が出されると、リス子はすかさず「もちろん!」(B)と答えたように、自分との違いを嫌うのではなく、助け合って行動する方がずっと楽しいことを、実感的に理解しました(A)。このように、AとBの学びが往還しながら連続することが、役割演技のよさと言えましょう。
役割演技は、単に体験的行為や活動そのものが目的ではなく、「様々な問題や課題を主体的に解決するために必要な資質・能力を養う」ために、それらを通じて学んだ内容から道徳的価値の意義などについての考えを深めることが目的です。ここでいう「様々な問題や課題」とは生活上の諸問題ではなく、道徳的問題であることは、言うまでもありません。しかし、演劇指導と勘違いされると、皆さんに混乱と失望を与えます。心理劇がその起源である役割演技は、授業者が適切な「監督」の役割を果たすとき、教師にも子どもたちにも感動をもたらし、効果の実感を与えてくれるはずです。そのための、手順やポイントについて、本書はこだわりました。適切な監督になれる手順を理解すれば、必ず子どもたちが自分たちで自発的に演じ、「問い」を解決する役割演技の授業が展開できるようになります。そんな、主体的な学びの実現を実感しながら、子どもたちの確かな学びを実現してほしいと心から願い、応援する次第です。