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授業のねらい―社会的な見方・考え方を鍛えるポイント
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日本で「天気予報」が消えた時期があった。1941年12月8日から1945年8月22日までの、アジア太平洋戦争の時期だ。戦争遂行のために「天気予報」が消え、多くの命が亡くなった事実について知るとともに、情報の役割についても考える。
1 最大風速35m、中心気圧935hPa
〈考えよう〉
「最大風速35m、中心気圧935hPa」これは、周防灘台風の最大風速と中心気圧です。いつ、どこで起こった台風だろう?
「周防灘?」
「こんな台風は聞いたことがない」
教師『地図帳で調べなさい』
「山口県だ」
「風速35mって、まあ並みの台風では?」
教師『サイパン島沖で発生したこの台風は、長崎に上陸した後、日本海に抜け27日に山口県に接近しました』
「27日って何月ですか?」
教師『8月です』
「何年ですか?」
教師『それは秘密……』
「えっ!」
2 死者・行方不明者
〈クイズ〉
死者・行方不明者は、どれくらいだったのだろう?
約50人 約100人 約500人 約1000人
「50人」「100人」が多い。理由を聞く。
「台風でそんな多くの人が亡くなるってあまり聞かない」
教師『夜半に周防灘の沿岸で高潮が発生し、満潮時と重なりました。それにより全半壊家屋が約10万戸にのぼる被害がでました』
「10万戸の全半壊って、死者・行方不明者も多いかも……」
教師『死者・行方不明は1158人でした』
「えっ! 多い」
「どうして?」
教師『過去の大型台風と比較してみましょう』
〈クイズ〉
過去において最も人的被害が多かったのは、1959年9月の伊勢湾台風です。最大風速75m、中心気圧895hPaだから強風だよ。死者・行方不明者はどれくらいだろう?
約1000人 約2000人 約3000人 約5000人
2000人から5000人までに分かれる。答えは約5000人。
3 第2室戸台風
〈クイズ〉
1961年9月に第2室戸台風が列島を直撃しました。最大風速75m、中心気圧890hPaで伊勢湾台風にほぼ匹敵します。死者・行方不明者はどれくらいだろう?
約200人 約500人 約1000人
「えっ! なんか死者が少なくなっている」
「ひっかけクイズ???」
答えは「約1000人」に集中する。
教師『死者・行方不明者は約200人です』
「えっ! どうして?」
「強い台風なのに……」
教師『なぜ伊勢湾台風と比較し、死者・行方不明者は少ないのだろう』
「進路が逸れたから」
教師『四国から近畿地方を直撃した』
「強靭な家をつくった」
教師『家屋もそうだが、伊勢湾台風の被害から自治体や個人も学び、対策を講じたってことだ』
4 周防灘台風の死者・行方不明者が多いワケ
〈グループ討議〉
周防灘台風は1942年8月に日本列島に上陸し、死者・行方不明者は1158人でした。なぜ、最大風速35m、中心気圧935hPaなのに、こんなに被害が多かったのだろうか?
「台風対策が十分ではなかった」
「1942年って戦争当時だから、それどころではない」
「戦争と比較したらどうってことないって思っていた」
〈考えよう〉
死者・行方不明者が多かった理由に、現在だったら当然なのに、当時、なかったことがあります。何でしょう?
「テレビ」「ラジオ」
「ネット」「新聞」
「消防団」「避難所」
教師『ラジオと新聞はありました。でも、アレがなかったのです』
「天気予報」
教師『ピンポン! 正解です。なぜ、天気予報はなかったのでしょう』
「みんな戦争に行って、人手が足らなかった」
教師『1941年12月8日18時から全国に気象報道が規制されます』
「アメリカとの戦争が始まった日だ」
「日本の気象状況をアメリカに知られたくないから」
教師『太平洋戦争の3年8か月は、重要な軍事機密として公表が禁じられた』
「だから、周防灘台風の情報も知らされなかったんだ」
Point▶ 台風の前日に「高潮の恐れあり十分な警戒を要す」といった簡単なもので、台風の位置や進路に関する情報はなかった。これが甚大な被害を生んだ。
5 隠された地震
戦争中、大地震もあった。1944年12月東海地方を襲ったマグニチュード7.9の昭和東南海地震(死者約1200人)や、1945年1月に愛知県などで起こった三河地震(死者約2300人)である。
〈発問〉
これらの地震は、被害状況もふくめ報道されたのだろうか?
「されなかった」との意見が多い。当時は詳細な報道もなく、建物倒壊の分布や津波が及んだ範囲などが、現在の研究により少しずつ明らかになっている。
〈グループ討議〉
どうして詳しい報道がなかったのだろうか?
「そもそも予報士が少なかった」
教師『なぜ?』
「戦争のために戦地に行っていた」
教師『気象技術者は戦地に駆り出されました。東南アジアに空港を建設するにあたって風向風速を観測したり、気象観測で作戦遂行のタイミングを探ったり、戦争には気象技術者が欠かせなかったのです。そのため戦地で亡くなった気象技術者も少なくありませんでした。他は?』
「敵国に地震により被害を受けたということを知られたくない」
「だって、喧嘩しているときに、怪我しているって言いたくない」(笑)
教師『昭和東南海大地震は、愛知、静岡、三重を中心に激しく揺れ、家屋、軍需工場などが倒壊している。天気予報が消えて農作業も打撃を受けました。晩春や春の霜害、田植え後の降雨の有無、夏の干ばつなど農作業に天気予報は欠かせませんが、いっさいの気象情報が消えたのです』
6 天気予報はだれのために
1945年8月15日、日本は敗戦を迎えました。天気予報が復活したのはその1週間後。NHKラジオは正午のニュースに続いて
「東京地方、今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」
と天気予報を流しました。歴史的瞬間です。
〈まとめ〉
次の( )に当てはまる文を書こう。
天気予報は、戦争当時は(1. )
そして本来、天気予報は(2. )
●1.「戦争を推進するために使われた」「人を救うのではなく命を奪っていた」
●2.「一人一人の命を救うためのものである」「みんなが安全・快適に生活するためのものである」
【参考文献】
「朝日新聞 社説」(2020年8月22日)
(イラスト:山本松澤友里)