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あんパン、龍馬に共通するもの、何でしょう。それは、「かたやぶり」だ。あのパンに餡を入れるなんて、新しい発想だ。新婚旅行に初めて行ったという龍馬も型破りな人だったらしい。それまでにない「発想」を人は「型破り」という。
しかし、私はもう少し広くこの言葉を使いたい。一人一人の成長にも「型破り」はあるのではないだろうか。一人一人の国語の学習にだって、「型やぶり」があっていい。先日、小学校低学年から中学年になるとき、思い切って会話から書き始めた、という四〇年以上前の記憶を語ってくれた人があった。それまで、「遠足に行きました。○○を見ました。おもしろかったよ」のような作文しか書けなかったのが、ずっと自分でも面白くなかったらしい。そこで、「『わあ、すごい!』○○ちゃんが言いました。」と書き始めたという。その時の興奮を未だに覚えているのである。一人一人の「成長」にも、「型破り」がある。さわやかな成長の瞬間。「型」は破られた。
しかし、実は、型を破るには、破るだけの「型」が出来ている必要がある。「型」すらできていないとそれを破ることはできない。つまり、学習には一定のモデルが必要だし、スキルに習熟するまでの一定の訓練も必要だ。「型どおり」なんて言葉もあるが、「型」を馬鹿にしてはいけない。実は、「型」にもよいもの、もっとずっとよいもの、など豊富にある。教師がどんな型を身につけさせられるのか、ということも大切な勝負どころだ。
国語の学力は、「基盤的言語力」「文脈的言語力」「主体的関与」という三つの要素から考えられると思う。「主体的関与」には正解はない。そこでは自分なりの「型破り」が求められもする。しかし、そのためには「型」を、それもいろいろなよりよい「型」をしっかり身につけさせておく必要がある。前二者も大切だ。
私も自分の「型」を、そして「殻」を破りたい。「かたやぶり」の字を並べ替えると「やぶりたか」になる。九州の(一部の)方言では「破りたい」という意味だ。だからどうなのって言われても困るんだけど、ま、教育の転換期だからこそ、「かた、やぶりたか!」。