- 教育オピニオン
- 国語
一 自己表現することに躊躇しない集団を
国語授業。その多くの導入で学習材となる文章の音読をする。私もそうだ。
誰か一人の子どもに音読をさせる場合に、いきなり指名はしない。私は子どもたち全員に必ず挙手を求める。
「一人で読みたい人はいませんか?」
その際、もし、四十人学級の数人しか手を挙げなかったとしたら、その後の国語授業は成立しない。三分の一の子どもしか挙げなかったら、あらゆる話し合いの学習はしても無駄である。
クラスの半数程度の子どもしか、「私が読みたい」と意思表示できない状態だったら、自分の学級集団をもう一度、初めから創り直すべきだと私は思う。
国語教室とは自分の意見を言葉で表現し合う場だ。それは難しいことだ。言葉を探し、考えをまとめ、伝わるように表現しなければならない。聞いてもらえるだろうか、分かってもらえるだろうかという不安が、誰にでも常にある。
にもかかわらず、「文章を声に出して音読する」という行為すら躊躇する子が、クラスの半数も存在して、どうして言葉で学び合う国語授業が成立するか。「伝え合う力」の育成など、夢物語だ。
音読するのが苦手でいい。そのために、私は教室にいる。漢字を読み間違えても、つっかえてもいい。そのために国語の授業がある。音読が苦手だと思う子こそ、音読をすすんでみんなの前ですればいいのだ。そうしていつか上手くなる。
だから、私は四十人に必ず聞く。
「一人で読みたい人はいませんか?」
四十人がさまざまな思いを持ちながら、手を挙げる。私は、あの子に指名する。やや自信なさそうに、最後に手を挙げた「あの子」にこそ。
二 仲間の自己表現を「目で聞く」集団を
自分らしさを言葉を通して表現することに躊躇しない学級集団を育てるためには、仲間の表現を「聞く」ことがきわめて重要なポイントになる。
私の教室用語で「目力」(めぢから)という言葉がある。仲間に自分らしさを伝える際には、聞いて欲しいという思いを目に込めて表現することを繰り返して指導する。説明文の暗唱でも、詩や物語の語りでも、スピーチや意見発表でも、「目力」のない表現は誰も聞いてくれないと話す。
この「目力」は、聞く行為においても同様である。仲間が精一杯に自己表現しているとき、「あなたの表現を私はしっかり聞いているよ」という思いを目に込めて聞くように教える。下を向いたり、何かしたりしながら聞くことは、決して許されない、とても失礼なことだと話す。
強い「目力」で自己表現する一人の表現者と、強い「目力」で受け止めようとする多くの聞き手によって創られる空気。その空気に満ちた教室にこそ、私が目指すべき「学び合う集団」は実現する。
授業力&学級統率力2011年8月号より転載