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旧文化教師は真っ赤な嘘を「事実」としてどう教えたのか
向山 洋一 著
刊行:
2004年3月17日
ジャンル:
教育学一般
対象:
小・中
明治図書
目次を眺めても分かるように、向山氏は「事実」を重視される。まったく同感である。しかしながら、この本の「4 戦争をムードで語ることで失う「事実を見る目」」の中には、向山氏の事実認定に関して疑問を抱かせる点がある。
【1】36ページから37ページにかけて、いわゆる百人斬り競争を報じた新聞記事が引用されている。これについて向山氏は次のように書いた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昭和十二年十二月十日の出来事として、「百人斬り」のことが東京日々新聞〔引用者注:正確には「東京日日新聞」〕に載った。
記者は、浅海・鈴木両特派員である。〔36ページ〕
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここで、向山氏は「昭和十二年十二月十日の出来事として」と書いている。しかし、向山氏が引用した「東京日日新聞」の記事には、「南京入りまで『百人斬り競争』といふ珍論争〔引用者注:「珍論争」は向山氏著書のまま〕をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明少尉、野田巌両少尉は、十日の紫金山攻略のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って」〔36ページ〕とある。つまり、この記事は、「百人斬り」は12月10日以前から開始され、10日を以て一応達成されたと報じている。この競争について最初に報じたのは11月30日付『東京日日新聞』であり、その後この競争は12月4日付、12月6日付、12月13日付と3回記事になっている。向山氏が引用しているのはこの12月13日付記事だけである。向山氏が他の3つの記事に言及しないのはなぜなのか。向山氏は、12月13日付記事について「明らかに記事は嘘であった。」〔38ページ〕と断定しているが、他の3回の報道についてはなぜ無視しているのか。
【2】戦後、二人の少尉は南京の国民党政権の下で実施された裁判で処刑される。これに関して向山氏は次のように書いている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そして更に一年余。昭和二十二年九月、中国側の指名で逮捕された。
その時、向井氏の上官富山大隊長は、次の証明書を提出した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
一、向井少尉は、無錫で一度浅海記者と会っただけである。
二、その後十二月二日、砲弾によって脚および右手に盲貫弾片創を受け、
看護班に収容され十五日まで治療を受けていた。
三、向井少尉は聯隊砲指揮官であり、白兵戦に参加する機会などない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
向井氏は、後方で手当をうけており、隊に復帰したのは十五日、しかも担架にのせられてであった。
浅海記者も、無錫から南京陥落後に入城していて、戦闘現場には行っていない。
明らかに記事は嘘であった。〔37−38ページ〕
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
向山氏が引用した新聞記事によれば、12月11日に向井氏は紫金山麓で記者と会見したことになっている。一方、富山大隊長の証明書によれば、11日に向井氏は紫金山麓にはいなかったことになる。記事と証明書と、一体どちらの言い分が本当なのか。読者としてはぜひとも「事実」を知りたくなる。しかし、向山氏は何の検証もおこなわないまま、向井氏の上官によるアリバイ証言だけを正しいと認めている。まったく不公平である。このアリバイ証言を裏付ける資料があるのか。あるのならば是非それを示していただきたい。それとも、向山氏は「私が正しいというのだから信じなさい」とでも言うのか。
【3】また、以下のように、記事に登場する本人が、自分が中国で捕虜虐殺を行なったことを別の場所で証言している。この資料について、向山氏はどのような評価をするのか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このときのN少尉〔引用者注:野田巌少尉のこと〕は、のちに帰国して故郷の小学校で内幕を気軽に語った。それを直接きいた志々目彰氏は、月刊誌『中国』(一九七一年一二月号)で少尉の言葉を次のように紹介している。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」
これでは、あの武勇伝も実は「据(す)えもの百人斬り」であり、要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる。〔本多勝一『南京への道』(朝日文庫、1989年)162−163ページ〕
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【4】新聞記事の引用には誤りがあるのではないか。例えば、向山氏の引用で「珍論争」「両少尉アハハ」「十一日夜」「超えていた」「俺の関の孫六が」「唐竹割りに」「十一日の午後三時、」「えいままよ」「生血を吸った関の孫六を」とある部分は、上記『南京への道』における同じ記事の引用では「珍競争」「両少尉はアハハハ=v「十一日昼」「超えてゐた」「俺の関孫六が」「唐竹割に」「十一日の午前三時、」「えいまゝよ」「生血を吸つた孫六を」と書かれている。一体どちらが正しいのであろうか。ぜひ向山氏にお答えいただきたい。
2005/9/20
匿名希望
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【1】36ページから37ページにかけて、いわゆる百人斬り競争を報じた新聞記事が引用されている。これについて向山氏は次のように書いた。
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昭和十二年十二月十日の出来事として、「百人斬り」のことが東京日々新聞〔引用者注:正確には「東京日日新聞」〕に載った。
記者は、浅海・鈴木両特派員である。〔36ページ〕
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ここで、向山氏は「昭和十二年十二月十日の出来事として」と書いている。しかし、向山氏が引用した「東京日日新聞」の記事には、「南京入りまで『百人斬り競争』といふ珍論争〔引用者注:「珍論争」は向山氏著書のまま〕をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明少尉、野田巌両少尉は、十日の紫金山攻略のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って」〔36ページ〕とある。つまり、この記事は、「百人斬り」は12月10日以前から開始され、10日を以て一応達成されたと報じている。この競争について最初に報じたのは11月30日付『東京日日新聞』であり、その後この競争は12月4日付、12月6日付、12月13日付と3回記事になっている。向山氏が引用しているのはこの12月13日付記事だけである。向山氏が他の3つの記事に言及しないのはなぜなのか。向山氏は、12月13日付記事について「明らかに記事は嘘であった。」〔38ページ〕と断定しているが、他の3回の報道についてはなぜ無視しているのか。
【2】戦後、二人の少尉は南京の国民党政権の下で実施された裁判で処刑される。これに関して向山氏は次のように書いている。
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そして更に一年余。昭和二十二年九月、中国側の指名で逮捕された。
その時、向井氏の上官富山大隊長は、次の証明書を提出した。
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一、向井少尉は、無錫で一度浅海記者と会っただけである。
二、その後十二月二日、砲弾によって脚および右手に盲貫弾片創を受け、
看護班に収容され十五日まで治療を受けていた。
三、向井少尉は聯隊砲指揮官であり、白兵戦に参加する機会などない。
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向井氏は、後方で手当をうけており、隊に復帰したのは十五日、しかも担架にのせられてであった。
浅海記者も、無錫から南京陥落後に入城していて、戦闘現場には行っていない。
明らかに記事は嘘であった。〔37−38ページ〕
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向山氏が引用した新聞記事によれば、12月11日に向井氏は紫金山麓で記者と会見したことになっている。一方、富山大隊長の証明書によれば、11日に向井氏は紫金山麓にはいなかったことになる。記事と証明書と、一体どちらの言い分が本当なのか。読者としてはぜひとも「事実」を知りたくなる。しかし、向山氏は何の検証もおこなわないまま、向井氏の上官によるアリバイ証言だけを正しいと認めている。まったく不公平である。このアリバイ証言を裏付ける資料があるのか。あるのならば是非それを示していただきたい。それとも、向山氏は「私が正しいというのだから信じなさい」とでも言うのか。
【3】また、以下のように、記事に登場する本人が、自分が中国で捕虜虐殺を行なったことを別の場所で証言している。この資料について、向山氏はどのような評価をするのか。
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このときのN少尉〔引用者注:野田巌少尉のこと〕は、のちに帰国して故郷の小学校で内幕を気軽に語った。それを直接きいた志々目彰氏は、月刊誌『中国』(一九七一年一二月号)で少尉の言葉を次のように紹介している。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……
占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」
これでは、あの武勇伝も実は「据(す)えもの百人斬り」であり、要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる。〔本多勝一『南京への道』(朝日文庫、1989年)162−163ページ〕
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【4】新聞記事の引用には誤りがあるのではないか。例えば、向山氏の引用で「珍論争」「両少尉アハハ」「十一日夜」「超えていた」「俺の関の孫六が」「唐竹割りに」「十一日の午後三時、」「えいままよ」「生血を吸った関の孫六を」とある部分は、上記『南京への道』における同じ記事の引用では「珍競争」「両少尉はアハハハ=v「十一日昼」「超えてゐた」「俺の関孫六が」「唐竹割に」「十一日の午前三時、」「えいまゝよ」「生血を吸つた孫六を」と書かれている。一体どちらが正しいのであろうか。ぜひ向山氏にお答えいただきたい。