
- 道徳の授業づくり講座
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前回は「考え、議論する道徳」の「考える道徳」について捉えてみました。今回は「議論する道徳」について見ていきましょう。
「議論する道徳」ってどんな学習活動?
2017年7月に提出された学習指導要領解説「特別の教科 道徳編」(小学校・中学校)や、「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」の資料等を見ても、実は「議論すること」そのものについての詳細な記述は載っていません。その多くは、「話し合い」、「語り合い」、「対話」、「討論」などとほぼ同じような意味で用いられています。そもそも「考え、議論する道徳」という言葉は、「読む道徳」(つまり読み物資料をただ読んで終わる道徳授業)との対比で用いられ始めましたので、子どもたちが自ら意見を述べ、授業に積極的に参加するといった能動的な道徳の学び(アクティブ・ラーニング)そのものを意味すると理解していいかと思います。
でも、なんとなくのイメージから「子どもたちが話し合いをしたらいいんでしょ」という風に道徳の学習活動を捉えてしまっては、やはりもったいないです。何より、「議論する道徳」の核心や本質的なところが見えなくなってしまって、活動が目的化してしまう「活動ありきの授業」になってしまうかもしれません。
そこで、「議論する道徳」をもうちょっと詳しく考えていきましょう。
議論が成り立つためには、まず人間関係ありき
先日、ビールメーカーであるハイネケンのCM(https://www.youtube.com/watch?v=8wYXw4K0A3g)をインターネット上で見ました。見られた方もいるかもしれませんね。そこでは思想信条(たとえば政治的な考え方、ジェンダーの捉え方、気候変動についての考えなど)がまったく異なる二人が、お互いのことを知らないまま室内へ入れられます。二人で助け合いながらモノを組み立てたり、会話をしながら時間が経っていき、二人の関係がようやくできあがった頃に、自分の思想を述べるVTRが部屋に映し出されます。そして「部屋を出ていくか、ビールを飲みながら議論するか」という選択を迫られるというCMです。結果的に全員残って”Beer & Discuss”を始めました!

ここには(CM上の演出があったとしても)大きな意味が隠されています。おそらく思想信条の違いを最初に伝えられ(ビールを飲みながら)議論をするように迫られても、成立しなかっただろうということです。つまり、作業や会話をしながら関係性を築いた上で、議論への扉を開けたところにその本質が見えてきます。議論をするにあたっては、まず関係性を築いていく必要があるのです(図参照) 。
たとえば、ブーバーは「我―汝」と「我―それ」という人間の態度から世界を捉えたことは有名です(ブーバー、1979年)。ブーバーを出しちゃうと一気に難しくなってしまうんですが、ごく簡単に説明すると、「我―汝」で語られる世界は、私とは切り離すことのできない全存在としての「あなた」が存在する世界であり、「我―それ」で語られる世界は、対象を「モノ」として捉え、自分の目的を達成するために手段としての「あなた」がいる世界です(「あの人は使える」という発言なんかはまさに「我―それ」で捉えていますね)。関係性を築くということは、「我―それ」の世界観から「我―汝」への世界観への扉を開いていくことになります。
ワレとナンジ…だと難しいですが、「あの人は使える」だとイメージできます! 人と人との関係をつくった状態でないと、議論する相手を「モノ」として捉えてしまうからダメってことでいいですか??
その通り! 人間として私と同様に相手も尊厳ある存在なのに、モノ扱いってなんだかね。ただ、厳密にこの〈汝〉と〈それ〉を分けることはできないんじゃないかなとも思います。二つの間で揺れ動くこともありますしね。
道徳の授業では「議論」を求めているの?
さて、「議論」を意味するdiscussionのcussionは、percussion(パーカッション)やconcussion(脳震盪)から連想できるように、語源的には「物事を壊す」という意味があります(ボーム、2007年)。つまり言葉や意味を分析し、さまざまな意味を多様な点から捉えようとするのが「議論する」ということになります。また議論には明示的にも暗黙的にもどうしても勝ち負けがついて回ります。どちらの主張がより一貫性があるのか、筋が通っているのかというところに主眼が置かれているからです。
新しい道徳教育は、こういった「議論する道徳」を求めているのでしょうか? 確かに、道徳性を伸ばしていくために「多面的・多角的に考える」学習活動が重視されていることを鑑みれば、「議論する道徳」も一理ありますね。でも、クラスの関係性が不十分なまま議論が行われたり、ましてや論理の一貫性で相手を負かしていくといった、自分の主義主張を押し通していくような「議論する道徳」となると考えものです。「他者とともによりよく生きるための基盤となる道徳性を養う」ことを目的としている道徳教育なのに、他者との間に常に優劣や勝ち負けが存在する道徳の授業だと、趣旨が一貫しませんよね(誤解のないように断っておきますが、ディベートなどに教育的価値がないなんてことを言うつもりはさらさらありません。論理力などを鍛えていくにはとてもいい方法だと思います)。
では、道徳の授業においては何を行っていくのでしょうか? 私は、「対話」であると考えています。十分な関係性が築かれた上でなされる対話、その対話に基づいた議論がこれからの道徳教育で、いやこれからの世界を生きていく上で、最も大切なことだと思っています。
残念ながら、ここで時間になってしまったようです。次回は対話への道徳教育について詳しく見ていきましょう。
第5講のまとめ
- 「議論する道徳」は、表面的に捉えれば、能動的な学習活動の一つと考えられる。
- ただし、議論することに強調を置きすぎると、論理の一貫性や勝ち負けにこだわった学習活動になってしまう恐れがある。
- 議論することよりも、対話するということを意識した道徳の授業づくりが必要になってくる。
【参考文献】
荒木寿友「道徳教育における対話理論」金光靖樹編著『やさしく学ぶ道徳教育』ミネルヴァ書房、2016年
中野民夫、堀公俊著『対話する力』日本経済新聞出版社、2009年
ブーバー著『我と汝・対話』岩波文庫、1979年
ボーム著『ダイアローグ』英治出版、2007年