- 教育オピニオン
創造は発見
何かを創るというのは、自分の外側の問題と思いがちですが、その「種」は実は自分の内側にあって、それを掘り起こして表出することにあります。創造は、自分の内部にあるものを発見することから始まるのです。
音楽は吸収されるもの
子どもたちは、学校に入学する前から日常に溢れる音や音楽に触れて育っていきます。昨今のメディア全盛で、ますますそこから様々な音楽は吸収され、主体的な「種」になっていきます。そういう意味で、音楽は言葉と同じだと言えます。それが現実だとはいえ、メディアから流れる音楽や言葉が、あまりに雑多過ぎることが大いに気になりますが。
良いものが吸収されなくては
食べ物でも、新鮮な栄養価の高いものを求めるでしょう。成長期の子どもは、なおさらです。音楽でもまったく同じです。昨今のメディアから流れる音楽は、デジタル音や録音など確かに精度が高く明瞭とは言えますが、添加物の入った加工食品に近いとは言えないでしょうか。
それでは、栄養価の高い音楽とは何なのでしょうか。それは、一級の生演奏を聴くことです。原体験こそ、一流である必要があります。そしてメディアとライヴでは、「仮想」と「真実」の違いと言えるのです。メディア全盛の現代では、「真実」の存在を成り立ち難くしています。これが、高度な利便性と裏腹な、現代の盲点でしょう。この盲点を補うことこそ、本来、学校教育で最も求められるべき課題でしょう。
内部にあれば自然な表出が
ともあれ、内部に「種」があれば、自然に音楽が表出されていくものです。それは言葉を考えればわかります。しかし、音楽は言葉と全く同じではありません。言葉は具体的な物事と結び付いていますが、音楽は内面の表象として抽象的な音による空間運動性の表現だからです。例えば、音を出さない指揮者という存在が、なぜ音楽表現のすべてを握っているか考えてみて下さい。それは、指揮者が音楽の根幹にある運動を司っているからです。
音楽の伝統は西洋に
学校教育では、学習指導要領で我が国はもとよりアジア諸国の民族的な音楽にも目を向けることがうたわれています。明治以降、衣食住同様にそれだけ我々自身の伝統を離れ、西洋音楽が我々のものになっているのです。つまり、それは日本語ではなく、西欧言語での表現と同列に考えることもできるのです。発音だけでなく、語彙も文法も日本語とは違うのです。これも、我々の現状における盲点です。既にすべてが我々のものだという、錯覚があります。
まずメロディーづくりから、しかし…
その端的な例が、音楽の三要素への理解です。つまりそれは、「メロディー」、「リズム」、「ハーモニー」です。その中で、「メロディー」をつくることはそれほど抵抗がないかもしれません。それは、自分の内部に発見する音楽の「種」は、たいてい触れた音楽のまず「メロディー」から吸収して主体的になっていくと言えるからです。それは、我が国の伝統が旋律音楽であることと、無関係とは思えません。
しかし西洋音楽の場合、必ずしも「メロディー」が主体ではない点を見過ごしています。よく「ハーモニーは、メロディーに付ける伴奏」と思われがちでが、それが違うのです。西洋音楽の母体は、実は「ハーモニー」にこそあります。そこが、本質的に理解されていないのです。我々日本人の理解の仕方でしか、西洋音楽を受け止めていないのです。同様に、「リズム」というものも、形ではなく運動なのです。
ハーモニーの理解に立った導き
もし教育するとするなら、ハーモニーの理解が、もっとも肝心だと言えますが、これはなかなか一筋縄ではいきません。しかし教育する側は、その背景にしっかり理解している必要はあるでしょう。真の音楽創作とは、「内部に響くハーモニーの発見」なのです。それを向かうべき指標として見失わず、メロディーから音楽づくりを導くこともできるでしょう。例えば、予め母体である豊かなハーモニーを与えて、いくつも違ったメロディーづくりをさせるとか、その指標がより良い方法を与えてくれます。
また、このように西洋音楽を本質的に理解することは、我々自身の伝統音楽をも正しく見つめることにつながると思うのです。
いずれにせよ、それもこれもメディアを通じた「仮想」ではない「真実」の生きたよい音楽をできるだけ体験させ、子どもたちの内部に本質的な「種」が植え付けられてこそ、芽生え花開くのだ、と考えていく必要があるのです。