- まえがき
- T どこまで生徒を信頼しているか
- ―教育は試されている
- [1] リスペクトがキーワード
- [2] [よのなか]科のエッセンスを混ぜ合わせて「人権教育」を柴島高校から全国に
- [3] 「そもそもは…」
- U 「自分を語る学校開き」
- [1] NHK「ETV特集『自分を語り、人とつながる〜春・柴島高校一年二組〜』」
- [2] 「自分を語る『学校開き』」とは何か
- [3] 「学校開き」での上級生の話
- (1) リストカットする母親を見て
- (2) 在日を隠すのは苦しい
- (3) 差別に向き合って自分を変えたい
- (4) 修学旅行の前日に親が離婚した
- [4] 生徒会長まとめ
- ルールを破るのが自由ではなく、
- ルールがあるからみんなが自由になれる
- [5] 「学校開き」を受けて(一・二年生の反応)
- [6] 「ホームルーム合宿」を振り返って
- [7] 「学校開き」に参加して
- V 「携帯電話を使った[よのなか]科」
- =藤原和博先生の授業実践
- [1] 第一回目の授業 「ハンバーガー店の店長になってみよう!」(五月十五日)
- (1) プライベートとパブリックを区別する
- (2) 携帯メールで新規出店場所を社長に伝える
- (3) 「ナナメの関係」でグループディスカッション─出店場所選定の理由をまとめて、発表する
- (4) 宿題─「流行っている店の特徴」をレポートする
- [2] 第二回目の授業 「商売繁盛の方程式をつくろう」(五月二十九日)
- (1) 宿題─レポート「流行っている店の特徴」を紹介する
- (2) 特徴一人十項目→グルーピング→ネーミング→ウエイトづけ→商売繁盛の方程式を作って発表
- (3) 数学的思考=論理思考
- [3] 解説「携帯電話を活用した[よのなか]科授業」
- [4] 柴島高校の「総合的な学習の時間」=Gプロジェクトの改革
- W 『大阪版[よのなか]科を構想する』
- =柴島高校教育フォーラム
- [1] プレゼンテーション 「自己開示を契機とした『違いを尊重する集団づくり』」
- (1) 「信頼ベースのコミュニケーションサイクル」
- (2) 空気を変える「学校開き」
- (3) ホームルーム合宿で成功体験を共有
- (4) 体験をどう整理するか─「仲間から空気へ」「感情から理性へ」
- (5) 「違いを尊重し合う」という価値(ルール)
- [2] パネルディスカッション「大阪版[よのなか]科を構想する」
- (1) 「自己表現していいんだよ」という教育
- (2) [よのなか]科の狙いは人権教育の根幹に近い
- (3) なぜ自己開示ができるのか
- (4) 人権問題に「自由な」主張は可能か
- (5) 「子どものことを知りたい」という明確な教員の思い
- (6) 自由に自分を語る文化がある(卒業生)
- (7) 教師に対する信頼は期待せずに入学した(卒業生)
- (8) なぜ携帯電話を授業で使ったのか
- (9) 価値観が多様化する社会における「集団と個人の関係」は?
- (10) 「お互いを認め合う」ことが人権尊重の最低限のルール
- X 私たちはどういう社会をめざすのか
- ―新しい人間関係のあり方モデルとしての人権教育
- [1] “リスペクト”を求める叫びが九十年前の日本にあった
- [2] 人権を我が事としてとらえる学習
- [3] 自己開示せざるをえない必然性を持っていたのは誰か?
- [4] 自己開示がこれまで以上に意味を持つ時代に
- [5] 自由であるための前提を守ることにコミットする
- [6] 「みんな仲間」を全員には要求できない
- [7] 人権には「枠組み」と「起点」がある
- [8] 新しい人権教育の展望は「美味しさ」から始まる集団育成に
- [9] 冷静な社会分析による、取組のアップデートを
- [10] 今日的人権教育のOSとは?
- [11] リスペクトは「新しい公共」の基本的マナー
- Y 「自己開示」と[よのなか]科は人権教育の進化に貢献できるか
- [1] なぜ「自己開示(自分を語る)」を始めたのか
- [2] 二十年前と今は何が違うのか
- [3] 多様性と個性を重視した総合学科において集団づくりは可能か
- [4] デジタル世界での「語り」はアナログ世界に通用するのか
- [5] 「自分を語る」ことを可能にする「リスペクトされた環境(空気・場)」とは何か
- [6] 「リスペクトされた環境(空気・場)」はどうすればできるのか
- [7] 「自分を語る」ことによって子どもは「つながる」のか
- [8] 意見が違う相手を「尊重できる」のか
- [9] 人権教育にとって[よのなか]科とは何か─新たな市民性教育を展望して
- あとがき
まえがき
百歳以上の高齢者の居住不明が相次ぎ、大阪市ではネグレクトされた二人の幼児がマンションの一室でゴミの山と一緒に放置され死亡した。現代社会は「無縁社会」となり、家族のつながりも地域住民のつながりも希薄で、隣で誰がどのように暮らしているかがわからない社会になっている。そのもとで親は「孤育て」に疲れ、子どもは「孤食」を強いられ、独居老人が「孤独死」している。学校でも子どもがコミュニケーションを上手にとれず、つながりにくくなっているといわれている。若者は自分を語ることによって傷つくことを怖れ、殻に閉じこもる。かろうじて匿名性の高い「仮想現実の世界」で「本音」と「つぶやき」を書き込むことでしか、自己表現を行い、他とつながることができない。「つながりの喪失」と「無縁社会の侵食」は子どもの育ちと学びを確実に蝕み始めている。
大阪府立柴島高校の「生徒の自己開示≠ナ始まる学校開き」は、このような状況を打破すべく、自分を語ることによって他とつながる成功体験を生徒に得させて、生徒同士のつながりを作ろうとする取組である。もちろん、「自己開示」や「学校開き」そのものは、大阪の学校では、以前から「立場宣言によるクラス開き」という形で取り組まれてきた。それは被差別部落出身生徒や在日韓国朝鮮人生徒などが、自己の社会的立場を明らかにすることによって、自分自身に向き合い、周りの生徒に人権問題の理解と仲間づくりの大切さを訴える取組であった。
しかし、二十年前のそれらの取組と「自己開示による学校開き」は明らかに異なる。スタイルは同じだが、整理の仕方が変わったのだと柴島高校の教師は語る。つまり、「自己開示」や「学校開き」に生徒たちが求めるものが変わったのだ。それは、「語る内容」に対する共感ではなく、「自分を語ってもいいのだ」という「リスペクトされた環境(空気や場)」に対する理解だというのである。「人が真剣に語るときには真剣に耳を傾ける」というルールが人権尊重の基盤であり、人権そのものだということだ。そして、そのルールの共有が集団の中に確立したとき、二十一世紀における「新しい公(共)」として「つながり」が生まれる可能性が拓かれるというのである。
ただ、そこには危うさもある。そのルールを共有するだけで、果たして人権問題の理解が進むのだろうかという疑問が生じる。本来、自分をさらけ出して、異なる立場や意見をぶつけ合って初めて相互理解が深まり、人と人とがつながるのではないのかという意見もある。その問いに、柴島高校の教師は「リスペクトされた環境があれば生徒たちは自分を語ることが容易になるし、語り合いを通じて生徒たち自身がそれぞれ自ら考えて自分なりの人権問題への理解を深めることができる」と。つまり、生徒自身の自ら考え判断する力に信頼を置くことが人権問題の理解を可能にするのだという見解だ。
このことが実は、柴島高校が[よのなか]科を取り入れた理由でもある。[よのなか]科では、ホームレス問題など現代社会の具体的な事象を対象として取り上げ、ディベートやロールプレーなどの参加型学習によって、「正解」を教え込み暗記させるのではなく、子ども自身にとことん考えさせ、自分なりの「納得解」を発見させることを重視しているからである。そこに柴島高校は「自己開示」と[よのなか]科の接点を見出したのである。
さて、この柴島高校の新しい視点にもとづく取組が、一過性の奇抜な取組で終わってしまうのか、二十一世紀の人権教育の革新的創造につながるのか、それは本書の読者である皆さん方の大いなる議論によるところが大である。熱い議論をお願いしたい。
最後に、「学校開き」や[よのなか]科に関わられたすべての方々、並びに明治図書の樋口雅子編集長のご協力ご助言に心より感謝申しあげる。
/成山 治彦
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- 明治図書