- まえがき
- 第1章 考え,議論する道徳授業と『学び合い』
- 1 イジメ解決には役に立たない
- 2 理解と納得
- 3 みんな
- 4 『学び合い』
- 5 近くの人と相談して
- 6 コロンボ型
- 7 相手意識・目的意識
- 8 多様な相手
- 9 評価
- 第2章 アクティブ・ラーニングを実現する!『学び合い』道徳授業プラン 小学校編
- 〈小学校全体〉
- 1 子どもたちによる,子どもたちのための,道徳の教材(資料)づくり
- 2 特別支援学級と一緒の授業で「いじめ」ストップ
- 【友情,信頼(人との関わり)】
- 〈低学年〉
- 1 自分できちんと
- 【節度,節制(自分自身)】
- 2 みんなのために
- 【勤労,公共の精神(集団や社会との関わり)】
- 〈中学年〉
- 1 たすけたい! でも,やくそくも大事なぜ? どうして? クラスみんなで話し合う楽しい道徳!
- 【親切,思いやり(人との関わり)】【規則の尊重(集団や社会との関わり)】
- 2 あきらめない心
- 【希望と勇気,努力と強い意志(自分自身)】
- 3 ルールやマナーはなんのため?
- 【規則の尊重(集団や社会との関わり)】
- 〈高学年〉
- 1 口に出さない
- 【正直,誠実(自分自身)】
- 2 世界家族〜幸せな暮らしってなんだろう〜
- 【国際理解,国際親善(集団や社会との関わり)】
- 【よりよく生きる喜び(生命や自然,崇高なものとの関わり)】
- 3 子どもが先生に! 子どもたちとともに創る授業
- 【勤労,公共の精神(集団や社会との関わり)】
- 第3章 アクティブ・ラーニングを実現する!『学び合い』道徳授業プラン 中学校編
- 1 猟師になりました。あと,炎上のこともちょこっと
- 〜生命について考え,他の人の考えに触れて自らの考えを深める〜
- 【相互理解・寛容(人との関わり)】
- 【生命の尊さ(生命や自然,崇高なものとの関わり)】
- 2 ピカソとモンドリアンは何を描きたかったか
- 〜理想の自己表現を探究し新しいものを生み出そうとした先人から探究心について学ぶ〜
- 【真理の探究,創造(自分自身)】
- 3 「ひとごと」から「わがこと」へ
- 〜差別を見抜き,許さず,なくしていこうとする行動力を培おう〜
- 【公正,公平,社会正義(集団や社会との関わり)】
- 4 日常生活から始める道徳活動
- 【節度・節制(自分自身)】
- 第4章 アクティブ・ラーニングにおける『学び合い』道徳授業とその可能性
- 1 これまでの道徳地図を超えて21世紀の新しい枠組みをつくる
- 2 『学び合い』道徳授業のワンダーランド
- 〜子どもたちの有能さを信頼して授業をつくる〜
- 3 子どもの道徳観を尊重する新しい『学び合い』道徳授業に向けて
- あとがき
まえがき
みなさんは日本中の学校で毎日,毎日,奇跡的なことが起こっているのを知っていますか?冷静に考えれば信じられないことです。それは理科の時間に起こります。どんなクラスにおいても1校時で科学的な発見が起こるのです。不思議ではないですか?
例えば,授業の最初に教師が広口瓶の中に火のついたロウソクを入れます。そしてガラス板でフタをします。やがてロウソクの火は消えます。教師は意味ありげに子どもたちの顔を見回し,そして黒板に「なぜ,フタをするとロウソクの火は消えるのか?」と板書します。子どもたちを指名して答えさせると「空気がなくなった」と答える子がいます。その子は前の授業の学習で燃えるには空気が必要だということを学んだことを思い出し,消えたのだから空気がなくなったと「論理的」に導いたのです。しかし,ガラス板でフタをした状態で,空気がなくなる,つまり真空になるわけがありません。紆余曲折がありますが,45分の中で「燃やす空気がなくなった」「燃やす空気が別な空気になった」という結論に至るのです。
人類が数百年,数千年の時間をかけて発見したことを,ごく普通の小学校の子どもが発見するのです。それも,どんな教室でも。
理由は答えを知っている子がいるからです。日本の子どもの3割程度は塾・予備校・通信教材・家庭教師で勉強しています。だから答えを知っているのです。その子たちは場の空気を読めるので,「なぜ,フタをするとロウソクの火は消えるのか?」と教師が言った直後には正解を答えません。なぜなら,そうすれば教師が困ることを知っているのです。そして,もうそろそろ時間だなと思うときに,正解を答えます。それも,酸素という言葉を知っていても,授業で学んでいない場合はその言葉を使わず,「燃やす空気がなくなった」「燃やす空気が別な空気になった」と答えるのです。彼らは「助燃性」のことを知っているので「燃える空気」とは言いません。
さて,これは道徳の授業でも同じではないでしょうか?
クラスの中の2割は大人の腹を読むのに長けています。副読本を読めば,教師が授業の最後に何を言ってほしいのかを察します。また,モラルジレンマ,役割演技においても,どのような立場を想定しており,どのように整理することを望んでいるかを察します。そのような子どもたちにとっては,道徳の授業は能の舞のような「型」を演じているようなものです。では,その2割以外の子どもたちはどうなのでしょうか?その子たちは教師の欲している答えが何かはわかりません。しかし,それを答えられる2割の子は誰かを知っています。その子たちは,「早く言えよ」と思っているのです。このような仕組みを理解しない人の場合,授業最後に数人の子どもが教師の欲しているすごい回答をすると,「素晴らしい授業」だと判断します。
しかし,本書を手にとっている方は違いますよね?
整然と自分の予想通りに授業は進むが,子どもたちが生き生きしていないことを感じているのではないでしょうか?また,活躍する子はいるけど,1年間,道徳の授業で全く発言しない子(指名しても無言)がいることにも気づいていますよね?それにモヤモヤしているのではないでしょうか?
正解です!本書はそのような方に手にとっていただきたい本です。
結論から言います。一人の教師が数十人の子どもを導く授業の場合,以上のようなことはどうしようもありません。神のごとき教師でも無理です。なぜでしょう?それは,一人一人の発想は違い,結論に至る過程は千差万別だからです。一人の教師がそれぞれに対応する授業は「物理的」に不可能です。そして,お客さんになっている子どもを授業に引き込むことは,あなたには無理なのです。いや,教師には無理だと思います。
では,どうするか?子どもたちと一緒にやるのです。楽しいですよ。ワクワクしますよ。さあ,始めましょう!
/西川 純
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