- まえがき
- Ⅰ 学級づくり最初の三日が勝負
- 一 最初の三日をのほほんとすごすと地獄の毎日が待っている
- 二 荒れたクラスになるのが嫌なら最初の三日間にできるだけの仕込みをせよ!
- 三 新年度初めの黄金の三日間をきちんとしないと教室は混乱状態になる
- Ⅱ 新卒・向山洋一の学級開き
- 一 子どもとの初めての対面
- 二 学級を組織する
- 三 俺の願い―PTA便り
- Ⅲ 学級づくり五つのステップ
- 一
- 二
- 三
- 四
- Ⅳ 学級を組織する法則
- 一 組織論1・四月の初めに何をするか
- 二 組織論2・組織化のイメージ
- 三 組織論3・学級内の三つの仕事分野
- 四 組織論4・向山学級組織図
- Ⅴ 再現! 向山学級の三日間(1)
- 一
- 二
- 三
- 四
- 五
- Ⅵ 再現! 向山学級の三日間(2)
- ─決定的瞬間の指導をそのまま再現─
- 一 最初のことば
- 二 担任の自己紹介
- 三 質問を受ける
- 四 ことばは限定することを教える
- 五 人間の三つの生きがいを話す
- 六 人間らしさについて話す
- 七 今後の生活の約束について話す
- 八 ルールを一つ一つ決める
- Ⅶ 一年担任としての三日間
- 一 同僚に聞く
- 二 一年生のテーマを考える
- 三 教室で一年生のことを考える
- 四 前々日、前日準備
- 五 入学式前夜―心配で寝つかれなかった
- 六 入学式の翌日
- 七 三日目
- 八 四日目の失敗
- 追試
- 最初の三日で学級を組織する の解説
まえがき
一
いつの間にか、たくさんの文を書いてしまったというのが実感である。
三十数年昔、教師になった時、「退職するまでにせめて一冊の本を出したい。それは自分が教師として生きた証である」と思ったものだった。
でも、一冊の本を出すことは、私にははるかに遠い願いだった。
東京の片隅で小さな勉強会、京浜教育サークルを作った私には、雑誌論文を書くチャンスさえなかったのである。
当時は、民教連の全盛時代、民教連の活動家に「向山は、一度も雑誌論文を書いたことがないじゃねえか」と嘲笑されたものだった。
私は教室での実践、学校での研究に没頭していた。
基準は一つ。「子どもの事実」を作り出すことである。
私はきれいごとの主張が嫌いだった。
とてもできないようなことを、口当りのいい言葉でかざり立てるのが嫌いだった。
そこに「嘘」を感じたからである。
教師の研究は「事実」のみに立脚すべきであるし、「巧妙な言いまわし」でごまかしてはいけないと思っていたのだ。
「跳び箱が跳べない子をどのようにしたら跳ばせられるか」
「どの子も発言するには、どう授業したらいいのか」
「討論の授業は、どう組み立てるのか」
このようなことが、私の関心事であった。
新卒研修の時も、私の発言は遠慮がなかった。研究授業の後、協議会があり、指導主事がまとめをする。
私と石黒は、指導主事のまとめに納得できないと、
「指導主事先生に質問があります」と手をあげたものだった。
指導主事先生のまとめへの批判だった。
しかし、言い方は気をつけた。上品に、ていねいに発言した。
だから、嫌味な新卒教師だった。でも、そんな私たちをかわいがってくれる先輩もいた。
大田区には、さまざまな研究団体の中心的実践家がいた。社会科の初志の会の編集長もいたし、日本作文の会、児言研などの委員長もいた。大村はま氏もいた。初等理科教育研究会の中心、坂本先生もいた。そこに、向山、石黒などが新卒で入ったわけである。
私たちは社会科の初志の会の先生方にかわいがられた。
授業が上手な先生方だった。
授業記録を大切にする先生方だった。
尊敬できる先輩に出会えたのは、幸せなことだった。
民教連の活動家は、政治向きの話をすると熱心になるが、授業そのものはレベルが低かった。というより、まともに研究をしていなかった。
私は、学校の中での実践を地道に続けていた。
三年、四年、五年、六年と持ちあがり、新卒四年目の時、東京代表として全国教研に参加をした。
東京の各区、各市の代表はすべて、全生研の実践だったが、講師であった全生研の竹内常一氏をして「こんなひからびた実践では駄目なのだ」と言わしめた低レベルであったのである。
竹内、中野両講師の推薦で、私は東京代表になった。全国教研でも、各県代表の全生研と論争することになる。私の発言は注目を集め、日ごとに生活指導の分科会は参加者がふくれあがっていた。一つの分科会が二千名近くにもなったのである。
その時、江部さん、樋口さんは、別の分科会にいた。
後に法則化運動を誕生させる両者は、すれちがったのである。
しかし、これは神様のおぼしめしであったと思う。
私が世に出るには、まだまだ充電期間が必要だった。
その時、世に出ていたら、この全集は誕生しなかっただろう。
大森第四小学校で、その後、さらに三年の実践をつみ、私は教師八年目に調布大塚小学校に転任する。
そこで、分析批評に初めて出会う。
日本の小学校では、初めての分析批評の実践、研究をつみあげることになる。
教師一〇年目、私は一冊の本を世に出した。
「教師修業十年」(原題「斎藤喜博を追って」)である。
この本によって、私は何人かの実践家、研究者と知りあう。
そして、あの「出口論争」への投稿、参加、「現代教育科学」誌は私の投稿をとりあげたのだ。
現在に至るも、私の論文のみであると江部編集長は言う。
この論文によって、私の世界は大きく開かれていく。
私は「子どもの事実」を大切にしてきた。「学校の研究」に没頭してきた(テーマを小さく限定した「問題提起のある研究」をいつも主張してきた)。
このことによって、私は「文を書く場」が与えられてきたのである。
子どもに力をつけよ。事実で証明せよ。
嘘を言うな。きれいなことばでごまかすな。
こうして過ごした三〇年余りの教師生活、いつの間にかたくさんの本を書いていた。
二
向山洋一全集を作るにあたって、これまでの「全集」の作り方とは全く違うものにしようと考えた。
普通なら、私の書いた本を年代別に、立派な表紙をつけて刊行していくことになる。
それは、本棚などに飾っておくのにはよいが、実用的ではない。
私は、自分の本を、多くの先生方に役立ててもらいたいのだ。
それには、立派な表紙より、ペラペラの表紙の方がいい。値段もかなり安くなる。
また、これまでの本をもう一度出版するというのも、どこか腑に落ちない。
わざわざ、自分の本を集めてもう一度「全集」とするのは、どこか、ひっかかる。
しかし、向山の実践を集大成しておきたい。
この二〇年間に書いた本は百冊に近く、その上「実物資料」や「雑誌論文」や「あちらこちらに書いた文」を集めると、膨大な数になる。
しかし、あまりにも膨大で、多方面にわたる。
たとえば、「いじめ」の文章を読もうとすると、一冊はまとまっているが、あちらこちらの本に散らばっている。
これらを集大成したい。
幸いなことに、私の主張は教師になって以来、一貫している。
ぶれていないのだ。
三〇年前の文は二〇年前の文につながり、それは一〇年前の文に発展して、現在につながっている。
私の主張は、あちこちに飛んではいない。
それは「子どもの事実」と「自分の腹の底にズシーンとくる実感」を大切にしてきたからだ。
向山の文章の主張が一貫しているわけだから、「古い文章」と「新しい文章」がまぜこぜになっても、問題は起こらない。
かえって「読む側」にとってみれば、同じテーマの文章が時系列に入っていて、都合がいい。役に立つ。
ここで、前代未聞の編集方針がうち出された。
向山の本をすべて解体してバラバラにし、それを再編集するのである。
つまり、一冊の本を章ごとに一〇から二〇ぐらいのユニットに解体する。
これを、すべての本、文章について行った。
六畳ぐらいの部屋にユニットが山のようになった。
ユニットの数は千数百にのぼった。
これを、教科別、学年別、テーマ別に分類していった。
この作業は中央事務局が担当して、一年かかった。そのうち二〇名で丸一日作業した日が三日あった。
解体作業、部門別再編までが中央事務局の仕事である。
それをもとに、私の弟子(一二名)が一冊ずつ編集を担当した。
九州から北海道から鳥取、岡山、大阪などから集まってもらって合宿をした。二泊三日の合宿を四回にわたって実施した。
編集作業は、ホテル会議室、TOSSビル会議室で行った。途中のものは、家に帰っての宿題にした。
かくして、第一期一五冊ができあがった。
解体、バラバラ、再編の仕事をしてできあがった本は、まるで新しい本になった。
私の本を熱中して読んでいる中央事務局、弟子の面々が夢中で読みふけったほどである。
これなら、ほとんどの人にとっても読みごたえのある本となるだろう。
本シリーズ編集を熱意をもってすすめて下さった江部満、樋口雅子両編集長に心から感謝をする。
あわせ、向山の本に支援、共鳴、共感を寄せて下さった多くの読者に心から感謝する。
本全集は、多くの人の支えによって誕生した。
一九九九年七月三〇日 超満員の法則化北海道セミナーにて /向山 洋一
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- 明治図書
- 昔の本ではあるけれど、考え方は今でも十分使えると思います。2021/2/1330代・小学校教員
- 学級経営で大切にしなければいけない点を、わかりやすく書いてあり読みやすかった。2016/2/2820代・小学校教員