- T 国民的アイデンティティをめぐる論点・争点と社会科授業
- 1 国民的アイデンティティをめぐる論点・争点は何か /原田 智仁
- (1) 国民的アイデンティティとは何か
- (2) 社会科教育の目的と国民的アイデンティティ
- (3) 社会科教育の内容と国民的アイデンティティ
- (4) 社会科教育の方法と国民的アイデンティティ
- 2 韓国の社会科で国民的アイデンティティはどう論じられているか /土屋 武志
- (1) 「渤海」について
- (2) 近代史の問題
- (3) 「南北分断」について
- 3 アメリカの社会科で国民的アイデンティティはどう論じられているか /森田 真樹
- (1) アメリカ合衆国における多文化主義の史的展開
- (2) 多文化主義論争と現代アメリカ合衆国の社会科教育の課題
- (3) 現代アメリカ合衆国の自国史カリキュラム開発の二潮流
- U 社会科教育の思想的基盤と国民的アイデンティティ
- 1 社会科の思想的基盤
- ―個(わたし)と共同性(わたしたち)をどうとらえるか― /草原 和博
- (1) 問題の所在―なぜ「個」と「共同性」が問われるか
- (2) 国民科における国民形成の論理
- (3) 社会科における国民形成の論理
- (4) 社会科の思想的基盤としての「個」と「共同性」
- 2 社会科の思想的基盤
- ―市民と国民の関係をどうとらえるか― /岡明 秀忠
- (1) 国民とは何か
- (2) 市民とは何か
- (3) 社会科教育で国民・市民をどう教えるのか
- 3 社会科の思想的基盤
- ―ナショナリズムとグローバリズムをどうとらえるか― /岩永 健司
- (1) 年代史的カリキュラム―日本における歴史学習内容の構成―
- (2) 問題史的カリキュラム―ドイツにおける歴史学習内容の構成―
- V 社会科学習におけるナショナリズムの論点・争点はどこか
- 1 社会科でナショナリズムをどう教えるか
- ―問題解決の糸口を求めて― /安達 一紀
- (1) 教室でナショナリズムを扱うということ
- (2) 感情のアリーナ
- (3) レトリックのアリーナ
- 2 地理学習でのナショナリズムの論点・争点はどこか
- ―地理学習での授業づくりのポイント― /中本 和彦
- (1) 世界の国々の学習と国民意識
- (2) 地理の授業に見られる価値注入の構造―模写と共感―
- (3) 地誌学習の変革の方向性―仮説と解釈―
- (4) 理論を中核にした地誌学習の授業モデル
- 3 歴史学習でのナショナリズムの論点・争点はどこか /高田 聡
- (1) 歴史学習における国民的アイデンティティの論点・争点はどこか
- (2) 歴史学習における論点・争点をふまえた授業づくりのポイント
- 4 公民学習でのナショナリズムの論点・争点はどこか /西端 幸信
- (1) 学習指導要領が意図する公民的分野の特色
- (2) 公民的分野でのナショナリズムの論点・争点の教材化
- W 国民的アイデンティティから見た「この問題」
- ―扱いにくい問題をどう教材化するか―
- 1 「エネルギー問題と原子力」をどう扱うか /丹後 靖史
- (1) 問題のとらえ方
- (2) 教材開発
- (3) 課題と展望
- 2 「日本の国際的地位とODA」をどう扱うか /大畑 健実
- (1) 論点・争点の受け止め方と授業化に向けて
- (2) 授業化への視点とその方法
- (3) 世界で活躍する日本人に着目した授業化
- (4) ODAを取り上げた国際理解学習の授業展開
- 3 「オリンピックと国旗」をどう扱うか /松元 伊知郎
- (1) 問題意識
- (2) 授業モデル(第6学年 社会科学習指導案)
- 4 「地図学習と北方領土」をどう扱うか /山田 達夫
- (1) グローバル化と国境
- (2) 地理教育における地図学習
- (3) 北方領土学習の学習構造と単元構想
- (4) 地図を活用した北方領土学習
- 5 「日本史と琉球・沖縄」をどう扱うか /佐藤 廣
- (1) 教材化の視点と方法
- (2) 指導の実際
- (3) 成果と課題
- 6 「近現代史と原爆投下」をどう扱うか /河原 和之
- (1) 原爆をめぐる争点・論点
- (2) 原爆投下をめぐる教材
- (3) 二つの原爆関係切手をめぐって
- (4) スミソニアン原爆展
- (5) 原爆は戦争の終結を早めたか
- (6) なぜ原爆を落としたのか
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まえがき
長い間,日本ではアイデンティティの問題はなおざりにされてきた。前近代の社会はどこでも同じであるが,生まれ落ちた時点ですでに世間での位置づけが決まっており,死ぬまでそれに大きな変化がないとすれば,「ここはどこ? 私は誰?」と問う必要はないからである。
近代はそうした事態に変更を迫ることになった。だが,国民国家という「想像の共同体」(アンダーソン)を創出することで,それまでの地縁や血縁に代わる新たな社会的紐帯(心と身体のきずな)を生みだした。この国民国家を担保するのが領土と主権であり,共通の言語(国語)と記憶(歴史)であった。それらは,平時には大衆の教育と政治参加を通して,また有事には動員と統制(経済統制,思想統制)によって強化された。日本の場合,明治維新この方,国民的アイデンティティの形成に見事に成功した事例といえるだろう。第二次大戦の敗北も,米ソ分割占領を免れたことなどで,国民的アイデンティティが大きく揺らぐことはなかった。だからこそ,多くの日本人は今日に至るまでアイデンティティの問題に無自覚でいられたのである。
しかし近年,日本でもアイデンティティがたびたび話題になり,議論の俎上に載せられるようになった。例えば,第16期中教審答申(1997年)の「自分探しの旅を扶ける営み」という表現は,現代の若者たちが自己アイデンティティを喪失していることを明らかにしたものといえる。また,1990年代半ばから盛んになった自由主義史観と称される人々の運動,およびその後の「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は,健全なナショナリズムに依拠した「国民の歴史」の創造を訴えてきた。彼らはグローバル化の進展とともに,家庭,学校,職場など日本社会のあらゆる場所,あらゆる局面で人々の意識が浮遊しはじめ,社会的凝集力が失われつつある現状に対し,国家・国民レベルでのアイデンティティの再構築を呼びかけたものととらえられる。
つまり,日本社会が急速に質的変化を起こしていることへの危機感が,中教審答申にも歴史修正主義の主張にも共通して読み取れるのである。「アイデンティティの空洞化」を避けるためには,個人としても集団としても,「未完の近代」に着目しなければならないということであろう。もとより,こうしたアイデンティティ論には批判もある。特にそれが国民的アイデンティティの問題となると,強い警戒心を示す人も少なくない。だが多くの人々がアイデンティティを切実に求める時代が到来したとするならば,社会科教育はもはやそれを等閑視できないだろう。
社会科はこれまで公民的資質の育成を目標に掲げてきたが,教師の側にその自覚は乏しく,むしろ知識理解の指導に努めてきたといってよい。だが教師の意図にかかわらず,子どもたちは一定の態度形成を果たしてきた。つまり,授業で取り上げる事実や主題の選択が,また教材の配列や学習の方法が,結果的に態度形成に深くかかわってきたのである。だとすれば教師は無頓着ではいられまい。社会科が公民的資質の育成にかかわらざるを得ないことを積極的に引き受け,その方向性と方法論を吟味することが,教師に課せられた責務であろう。国民的アイデンティティもその一つに他ならない。
本書は,以上の認識を踏まえ,小・中学校の社会科の教材づくり,授業づくりに国民的アイデンティティの視点から問題提起を行うものである。第T章では,まず国民的アイデンティティとは一体何か,社会科教育とかかわってどのような論点・争点があるのかを整理する。続いて,韓国やアメリカではこの問題がどのように議論され,教育課程づくりに反映されているのかを明らかにする。第U章では社会科の思想的基盤との関連で,国民的アイデンティティの問題を吟味する。すなわち社会科教育はいかなる思想に基づいているのかを,「個と共同性」,「市民と国民」,「ナショナリズムとグローバリズム」の関係性を問う中で,改めて明らかにしてみたい。
続く第V章,第W章はいわば実践編に該当する。第V章では,まず社会科教育全般,次いで地理学習,歴史学習,公民学習において国民的アイデンティティとナショナリズムをめぐる論点・争点はどこにあるのかを明らかにする。第W章では,国民的アイデンティティにかかわって特に扱いにくい事例を取り上げ,その教材化の視点と方法を追求し,具体的な教材プランを提案する。これらの教材が,読者のアイデンティティ再考のきっかけとなれば幸いである。
最後に,本書は樋口雅子編集長の多大なお力添えがなければ刊行されなかった。また,原田俊明氏には編集・校正でご尽力いただいた。ここに記してお礼申し上げたい。
/原田 智仁
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