学級経営力を高める7
学級経営力・低学年学級担任の責任

学級経営力を高める7学級経営力・低学年学級担任の責任

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教育困難時代に悩む教師に必要な学級経営術をまとめた。

子どもは知識や規律の入れ物ではないという児童観の基に提案されたのが本書のねらいである。そのために「しつけ」を重視し、あたたかくきびしい学級経営を目指している。思いやりのある子、強いからだと心を育てる、確かな学びを育てる等、低学年教師の責任を説く。


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ISBN:
4-18-531717-4
ジャンル:
学級経営
刊行:
対象:
小学校
仕様:
A5判 148頁
状態:
絶版
出荷:
復刊次第

目次

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序 /堀 裕嗣
まえがき /横藤 雅人
T たくましく思いやりある子を育てる
/横藤 雅人
一 ひよわでジコチュウな子が増えている
二 指導モードと育つ子ども像
三 あたたかくきびしい指導を
U つよいからだとこころを育てる
一 自立へ向かう強さを育てる /小泉 幸男
二 自分への自信を育てる /紙谷 健一
三 人のために動けるこころを育てる /太田 麻美
V たしかなまなびを育てる
一 からだを通して育てる /横藤 雅人
二 繰り返しで楽しく、たしかな力を育てる /山田 洋一
三 自分で考え、計画し、進める力を育てる /山本 和彦
四 三つのステップで楽しく作文力を育てる /間嶋 勉
W つながりの中で育てる
一 ギャングエイジに向けて集団をつくる /高橋 正一
二 保護者とのつながりを強く、太くする /藤井 洋介
三 三者の連絡帳でこころを通わせる /横藤 雅人
X 低学年教師の仕事術
/横藤 雅人
一 気持ちよく夢を追うために
二 まず心身の健康
三 割り切りを早く
四 ツールで効率よく
五 子どもと共に
六 校外のネットワークを
あとがき /横藤 雅人

序学級経営力を考えるための三つの視点

   一 「経験主義」と「系統主義」の相克を見据える

 「ゆとり教育」路線が方向転換を迫られている。理由は簡単である。この二十年で振り子が振れすぎたのだ。振れすぎた振り子には、必ず揺り戻しがくる。それだけのことである。

 戦後の教育改革は言うまでもなく、「経験主義的な学力観」と「系統主義的な学力観」との駆け引きの中で進められてきた。戦後間もなく、教育界を席巻した「経験主義」の圧倒的な流行。それに対する批判として生まれた学力低下論議、必然的に巻き起こる「系統主義」の復興。更に「新学力観」と名を変えて、再び巻き返しを図った「経験主義」。そして、いままた、戦後二度目の学力低下論議が、十マス計算や百マス計算、漢字ドリルや音読・暗唱の台頭とともに、「系統主義的な学力観」を再び流行の頂点へと押し上げようとしている。「歴史は繰り返す」という紋切り型のフレーズが、これ以上ない存在感をもってピタリと当てはまる。

 戦後教育に対して、こうした的な、或いは的なまなざしを向けるとき、必ず出てくるのが文部科学省に対する批判的言説である。文部科学省が明確なビジョンももたずに、振り子を振りすぎるからだ、と。教育に必要なのは、両者のバランスのとれた理念である、と。しかし、これは当たらない。この程度の認識なら、文部科学省も明らかにもっていた。その証拠に、いわゆる「新学力観」は「基礎基本の徹底」とセットで提示されたのである。振り子を振りすぎたのは、そのバランス感覚をもち得なかった現場である。或いは現場を統括する各教育委員会である。彼等は文部科学省の提示したバランス論を理解することなく、「関心・意欲」の醸成こそが教育を機能させる、「関心・意欲」を育てれば学力はあとからついてくる、といった、自らが学校教育に対して抱くポジティヴなイメージを先行させて、コースを逸脱して暴走したのである。「新学力観」という流行に踊らされたのだと言ってもいい。振れすぎた振り子は、その結果だと言える。

 私がここで、現場人の一人として言いたいのは、今度こそ、マスコミの喧伝に踊らされてはならない、ということである。「分数のできない大学生」という象徴的なフレーズが日本の将来に不安を抱かせたとしても、また、PISAの学力調査において日本の高校生の学力が国際比較で予想外に低かったとしても、その責任を「ゆとり教育」や「新学力観」のみに向けてしまうのは、早計と言わねばならない。ましてや、これらの現状を文部科学省の失政に起因すると断じてしまうのは生産的でない。「新学力観」に「関心・意欲」のみのイメージを付与し、無目的な活動主義に走ったのは、あくまでも現場と教委なのである(実は、一部の研究者にも大きな責任がある)。私たち現場人は、この反省に立って今後を展望しなくてはならないだろう。振り子を逆に振りすぎる愚を犯してはならない。

 「経験主義的な学力観」に立つ学習と「系統主義的な学力観」に立つ学習とをバランスよく機能させようとすれば、必要とされる方向性はいたってシンプルである。教えるべきことは徹底して教え、経験させるべきことは大胆に経験させる。たったこれだけのことである。これまでの学校教育には、この両者がともになかった。教えるべきことが何なのか、それはどのように教えなくてはならないのか、どの程度繰り返して指導すれば定着するのか。「系統主義的な学力観」を志す現場人には、「系統主義」とは名ばかりで、こうした〈計画性〉が皆無だったと言ってよい。本来、高学年にも中学生にも、そして高校生にも、小学校二年生に九九を教えるのと同じように、教えるべきことは全員に定着するまで繰り返し、徹底して教え込まなくてはならなかったのである。一方、「経験主義的な学力観」を志す者には、〈大胆さ〉がなかった。子どもの安全性が確保できないのではないか、地域に出すほどに社会性は育っているのか、失礼な振る舞いでを買うのではないか、職員に無用の多忙さを強いるのではないか。職員会議では、常にこうしたネガティヴ・キャンペーンが張られる。しかし、失敗を怖れないこと、試行錯誤から逃げないこと、多忙を引き受けること、これらをなくして、子どもたちに経験させるべきことを経験させることなど、不可能なのである。

 本シリーズでは第六巻から第十巻まで、こうした「経験主義」と「系統主義」との相克を明確に意識した。発達段階ごとに、「経験させるべきこと」と「教えるべきこと」とをともに提案させていただいたつもりである。


   二 「子どもの変質」を見据える

 しかし、「経験させるべきこと」と「教えるべきこと」とを明確に意識すれば、学校教育が理想的に機能するかと言えば決してそうではない。「経験させるべきこと」も「教えるべきこと」も、時代とともに移り変わっていくからである。世の中のすべてのものがそうであるように、教育にもまた「不易」もあれば「流行」もある。

 昨今、「学力低下論議」とともに教育界を席巻しているのが、「子どもの変質」論議である。一九九七年初夏の神戸連続児童殺傷事件以来、栃木の女教師刺殺事件、長崎の幼児殺害事件、そして佐世保の小六女児殺害事件に至るまで、すべて「子どもの変質」が喧伝された。しかし、現場感覚からすれば、これらマスコミが取り上げた少年事件は、「子どもの変質」論議のごく少数の例外事例に過ぎない。現在、進行しつつある「子どもの変質」はこれらの事件と同質の根をもちながらも、もっと広範にわたる日常的な質の変化である。家庭学習習慣が身についておらず、基礎学力が明らかに低下している。耐性がなくなり、無用のトラブルが頻発する。コミュニケーション力が低下し、引きこもり型の不登校が増える。こうした諸々の事象はすべて、一定の方向での「子どもの変質」という点で通底している。


  子どもたちが根拠なく自らを過信するようになった。また、その過信が危機に瀕すると一気に自信を喪失し、自己否定にまで陥るようになった。


 要するに、子どもたちが二つの意味で弱くなったのである。

 第一に、精神的な弱さである。その昔、子どもは大人になる過程において、高学年から中学生くらいで「見る自分」(=自己認識)と「見られる自分」(=他者による自己規定)とがする危機を経験し、その後、悩みながら両者を統合していった(『自我同一性』E・H・エリクソン著・小此木啓吾訳編・誠信書房)。その後、社会人として「職業的アイデンティティ」を抱くに及び、自己の存在を社会的に規定することによって「大人」になっていった。誰もがこの過程を経て「大人」になったのである。しかし、現在の子どもたちは違う。核家族の中で幼少期から「かけがえのない自己」として自己を認識し、その効力を最も身近な「社会」である学校でも、遺憾なく発揮しようとするようになった。それが小学校から中学校、高校に至るまで、一度も否定されることなく進む可能性さえ高くなった。その結果、かつてはギャングエイジで終わっていたようなトラブル事例が、高学年や中学校はもちろん、高校でさえ見られるようになってきている。「かけがえのない自己」と「かけがえのない自己」とが、真正面から衝突するわけである。多くの識者が指摘するように、間違いなく子どもたちの成長の過程は、かつてと比べて十年ほど遅れていると見てよい。しかし問題は、その成長過程の遅れがもたらす副作用の方である。「かけがえのない自己」と「かけがえのない自己」とが真正面から衝突すれば、当然のことながら、どちらか一方が勝ち、どちらか一方が負けることになる。勝ち組はその後もなお、「かけがえのない自己」を確保し続け、再び衝突すべき「かけがえのない自己」を探し始める。しかし負け組は、「かけがえのない自己」の危機に耐えねばならない。ある者は自分を「かけがえのない自己」として認めてくれる別の友人を求め、ある者は自分の中に「かけがえのない自己」を大切にしまい込んだまま、他人とのコミュニケーションの成立をずらし始める。うわべでは楽しそうに微笑みながら、決して他人に自己を開示しなくなる。そして、そうした中から=一定の割合で、「かけがえのない自己」 の危機に耐えかね、引きこもり型不登校への道を歩み始める者が現れるのである。家族にも教師にも否定されることなく育ってきた子どもたちにとって、「かけがえのない自己」の崩壊は、自らの〈全否定〉にさえ思われる。ストレスに対する耐性は、年々弱まっていると見て間違いない。

 第二に、肉体的な弱さである。学校は八時過ぎに始まり、小学校であれば十五時、中学校であれば十六時前後に終わる。こうした学校生活が、子どもたちの日常生活にリズムをつくっていく。毎日、遅刻をしないで学校に通うためには、毎日、七時頃には起き、十二時前には寝なければならないからだ。こうした生活リズムが放課時間の使い方を規定する。何時から何時までテレビを見て、何時から何時までは予習と復習をして、何時から何時までは部活動に参加して、というように。時間を自分で、或いは親に強制されて操作する、そういう感覚を身につけることが学校生活では前提とされている。親に隠れて夜更かししても、学校の始まる時間は変わらない。生活リズムは学校を中心にまわるのである。夏休みや冬休みは、圧倒的に自由時間が増える。だからこそ、かつては夏休みや冬休みが楽しみでならなかった。しかし現在、子どもたちの中で、この学校を中心とした生活リズムが崩壊し始めている。十年ほど前から、子どもたちの中に四時間目あたりから登校する、午後から登校するという者がポツリポツリと見られるようになった。或いは、熱が出ているわけでもないのに、体調が悪いと言って欠席する子どもが増え始めた。保護者もそれを認めるようになった。活動の中心が真夜中になってきているのである。二十一世紀になって、インターネットの爆発的な普及とともに、その数は圧倒的に増えつつある。子どもたちが「明日も学校があるから」「明日も早いから」と思わなくなってきている。こうした傾向が見られるのは、学校に大幅に遅刻してくる一部の子どもたちばかりではない。朝から学校に来ている子どもたちの多くも、夜二時、三時、四時までパソコン画面とにらめっこということが珍しくなくなってきている。その結果、授業中や清掃時間はもちろん、給食時間でさえ、休んでいる子どもたちが多くなってきた。サボっているのではない。体を休めているのである。机に頬杖をついて、或いは回転ぼうきを杖代わりにして、無意識に体を休めているのである。こうした生活リズムの崩壊による身体的な疲労が、不登校につながることも少なくない。中学校の不登校は先に挙げた「精神的な弱さ」によるものが多いが、小学校の不登校はこうした心身の疲労によるものが圧倒的に多い。

 こうした時代による「子どもの変質」には、「保護者の変質」が大きな影響を与えていることも無視できない。昨今、保護者の変容も方々で論じられていることは周知のとおりである。友達親子、アダルト・チルドレンといった概念が大流行である。教育雑誌をひもとけば、保護者のクレームから心身症になった教師の事例がどの雑誌にも取り上げられている。私は現在の保護者と同世代である。私たちの世代は昭和十年代を親にもつ。自分の子どもに豊かさを享受させることが最善だと思っていた世代である。私たちの家庭には、生まれたときからテレビがあった。テレビは自分の権利が一番だ、自分の幸せが一番だ、私たちは幸せになる権利がある、というメッセージを流し続けた。私たちはそうしたメッセージを真正面から享受した。その結果、私たちの世代はかつての日本人がもっていた日本的な美徳を忘れていった。我が儘になった。そしてその世代が、現在の保護者なのである。

 本シリーズでは第六巻から第十巻まで、こうした「子どもの変質」を視野に入れて、編集させていただいた。また、すべての提案が現代的な子ども像を前提としたものになっている。


   三 「教師に対する向かい風」を見据える

 現在、我々現場教師には、三方向からの「向かい風」が強烈に吹き付けている。

 第一に、真正面から吹き付けるのが、「教職=聖職イメージ」の向かい風である。この風が相も変わらず、私たちに向けて強烈に吹き付けてくる。実は、子どもや保護者を含めて多くの人々は、本音では、誰も教師という職業を「聖職」だなどとは考えていない。かく言う我々教師さえ、そんな自己規定はしていないはずである。しかし、このイメージは子どもや保護者のクレームの形で恣意的に、都合よく用いられる。例えば、教師と子どもとの関係がうまく行っておらず、保護者も担任教師に不満をもっているというような場合、担任に教育の場にふさわしくない失言などがあれば、どこからか「教職=聖職」論が浮上してきて幅を利かせ始める。そうした場合、必ず表れるのが「教師にあるまじき行為だ」「教職にある者にそんな発言が許されるのか」といった、厳しい叱責である。私たち教師は、時代が個々人の表現の自由を保障すればするほど、言葉を選んで仕事をしなくてはならない。しかし、教育の場では言葉を選ぶこと以上に、瞬発力がものを言う場合が多いことを、教師ならば誰でも知っている。言うまでもなく、教師の行動は即時性が命なのである。こうした矛盾を我々教師は引き受けねばならない。また、更に言えば、猥褻行為や体罰は言うに及ばず、スピード違反や交通事故、喧嘩、酒席で羽目を外すことなどなど、教師の行為は「聖職イメージ」で常に監視されているということを意識しなくてはならないだろう。

 第二に、右手前方から吹き付けるのが、「学校教育サービス業化」の向かい風である。かつて学校教育は、国家に有益な人材を育てる営みであった。それが戦後、子どもたちの自立を促す営みになった。そしていま、学校教育は家庭と一体化して最初から自立している子どもたちに、教育サービスを提供する機関として受け止められている。人間教育は家庭でやります、うちの子は百パーセント「いい子」です、先生は変な影響力を行使しないで教育サービスを提供してください、というわけだ。ひどいときには、うちの子はあんなに「いい子」だったのに、先生のせいで、学校のせいで悪くなってしまった、とさえ言われる。これ即ち、学校教育を単純に「サービス業」として認識する層が増えたからである。もちろん学校教育には、「サービス業」的な側面が確かにある。昨今の「選択履修枠の拡大」や「学校選択制の導入」などは、教育政策自体が「サービス業」的な発想をもち始めたことを意味している。しかし、少なくとも公立学校にとって、決して子どもたちは「お客様」ではない。子どもたち個々の自己実現のために教育サービスを提供することが仕事の半分ではあるが、仕事のもう半分は、子どもたちを立派な社会の構成員として自立させることであり、できれば社会にとって(場合によっては、国家にとって)有益な人材を育て、次代の日本社会をよりよい社会に変えていく人材を育成することなのである。また、更に言うなら、次代の社会をリードするような人材を育成するということをも視野に入れなくてはならない。だが、「学校教育サービス業化」のイメージは=色濃く浸透し、学校教育のこうした側面は理解されにくい現状にある。この矛盾を我々教師は引き受けねばならない。

 第三に、左手前方から吹き付けるのが、「管理強化」の向かい風である。昨今、教員の人事考課の問題が物議を醸し出している。東京都では教師がその実績によって「S・A・B・C・D」と五段階で評価され、「D教師」の給与の二〇%が「S教師」に上乗せされると言う。もしかしたらこれから、「C教師」給与の何%かが「A教師」にも上乗せされるのかも知れない。「指導力不足教員」と認定された教師も年々増え続け、二〇〇四年度は五六六人に上ったと言う。更には、教育予算の削減とともに、学校の多くの仕事を非常勤に任せようとする案さえある。特別支援教育の理念も導入され浸透しつつある。まだまだある。民間人校長の急速な導入、入試システムの複雑化、女子中高生を食い物にする性産業の拡大、「総合的な学習の時間」の導入をはじめとする学校独自カリキュラムの拡大、学校選択制による人事の混乱、絶対評価導入に伴う説明責任・結果責任、学校評価の本格的な導入、教員免許の更新制の導入などなど。一部地域では、教師のフリーエージェント制度まで現れた。いずれにせよ、教育予算は削減される一方、教師の仕事は増える一方、管理は強化される一方、である。背後からはおそらく、教員リストラの波がひたひたと近づいてきている。こうした圧力を我々教師は甘んじて受けなくてはならない。

 いまのところ、教師という職業にとって、明るい材料は何一つない。こう言って過言ではないだろう。特に我々教師にとって難しいのは、第二の「学校教育サービス業化」の向かい風と、第三の「管理強化」の向かい風とが、互いに矛盾した要求を突きつけてくることが多いという点にある。「学校教育サービス業化」の波は、子どもたち個々に対する手厚い援助を要請している。予算削減を伴う「管理強化」の波は、その影響として教師一人一人を多忙へと誘い、教育活動は「統率」「管理」の強化へと向かいがちになる。しかも、「子どもの変質」に伴って、子どもたちの「統率」「管理」は従来に比してどんどん困難になってきている。


  矛盾した要請にうまく折り合いをつけ、尚かつ多忙ストレスに強い、「スーパーティーチャー」だけが必要とされている。


 これからの教師は、自分の仕事に対するマネジメントのみならず、自分自身に対するマネジメントにも長けていなくてはならないのである。そのためには、日頃から自己鍛錬を怠らず、また、常に仕事に効率性を追求する姿勢が必要となる。学校教育を取り巻く様々な矛盾を引き受け、それを凌駕し、尚かつ笑顔を絶やさない。それがこれからを生き抜くことのできる教師像である。なんとも絶望的な教師像ではないか。しかし、それでもなお、我々教師はこの現実を真摯に受け止めなくてはならないのである。

 本シリーズでは第六巻から第十巻まで、こうした「三つの向かい風」に鑑み、終章にそれぞれの編者の「仕事術」を掲載している。少しでも読者諸氏の参考になればと念じて止まない。いよいよ教師にとって、「冬の時代」が到来する。そこに必要なのは、実態に即した研修(=自己鍛錬)であり、校務を能率的に遂行していく「仕事術」なのである。

 本シリーズは、以下の構成を採っている。


 第六巻 学級経営力・特別支援教育の展望  第七巻 学級経営力・低学年担任の責任

 第八巻 学級経営力・中学年担任の責任   第九巻 学級経営力・高学年担任の責任

 第十巻 学級経営力・中学担任の責任


 教育困難時代に悩む現場教師に本書を少しでも参考にしていただけるなら、それは望外の幸せである。


  二〇〇六年一月   /堀 裕嗣

著者紹介

横藤 雅人(よこふじ まさと)著書を検索»

札幌市立北野平小学校教諭

1955年 北海道留萌市に生まれる。札幌開成高校を卒業後,北海道教育大学札幌分校(当時,現在は札幌校)入学。教育学科にて教育方法学を専攻。

1978年 札幌市立太平小学校で新卒として教師生活をスタート。同時に教育研究サークル「土曜の会」を設立。また,夏・冬休みには札幌市林間学校の指導員として野外活動に取り組む。「土曜の会」,林間学校は1992年まで継続。

1990年 北海道生活科教育連盟(後に北海道生活科・総合的な学習教育連盟)発足。

同時に加入。その後事務局員。

1999年 インターネット上の教育運動kyositu.comが発足。編集部。

2004年 道内実践家による研究サークル「教師力BRUSH-UPセミナー」設立。

現在は,勤務校にて教務主任。


教師力BRUSH-UPセミナー

2004年9月,横藤雅人,堀裕嗣,石川晋,山田洋一らが中心となって設立。「異質からの学び合い」を合い言葉に,全道の意欲あふれる実践家の交流を目指す。現在,事務局は60名を超えている。また,「教師力BRUSH-UPセミナー」は,発足から本書発行までの1年半で7回実施。いずれも熱気あふれる会となっている。

堀 裕嗣(ほり ひろつぐ)著書を検索»

1966年 北海道湧別町生まれ。北海道立帯広柏葉高校卒業後,北海道教育大学岩見沢校入学。森田茂之に師事し国語科教育を専攻。

1991年 札幌市立厚別中学校。

1992年 教育研究サークル「研究集団ことのは」設立。

1998年 札幌市立向陵中学校。

2004年 北海道教育大学札幌校・岩見沢校修士課程修了。

2005年 札幌市立上篠路中学校。現在に至る。

※この情報は、本書が刊行された当時の奥付の記載内容に基づいて作成されています。
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