- はじめに
- 第1章 江戸はどのように理解されているのか
- 1 なぜ,江戸を見直さなくてはならないのか
- 2 江戸はどのように理解されているのか
- 3 教科書では,どのように江戸は書かれてきたのか
- (1) 産業の発達が中心となる昭和28年版の教科書記述
- (2) 政治史中心の昭和32年版の教科書記述
- (3) 通史としてバランスをとった昭和46年版の教科書記述
- (4) 武士の支配の論理が完成した昭和55年版の教科書記述
- (5) 主体的学習が強調された平成4年版の教科書記述
- (6) 歴史観の転換期にある平成14年版の教科書記述
- 4 なぜ,江戸を過酷で抑圧された時代と考えてしまうのか
- 第2章 江戸をどのように授業すればよいか
- 1 主体的に問い考える歴史学習はどうあればよいか
- (1) 「主体的」な学習とは何か
- (2) 知識の質と問い考える社会科学習の方法
- 2 「徳川家光と江戸幕府」の指導計画はどうあればよいか
- 3 「参勤交代」はどのように授業すればよいか
- 4 「農民のくらし」はどのように授業すればよいか
- (1) 江戸の農民のくらしは貧しいのか
- (2) 慶安の御触書はなぜだされたのか 新田開発で何が変ったのか
- (3) 武士は年貢を食べきれない 余った年貢はどこにいったのか
- (4) 鎖国は自給自足体制を完成させた
- (5) 5公5民の年貢率は本当か 農民のくらしは貧しいのか
- 5 「厳しく差別されていた人々」はどのように授業すればよいのか
- (1) 住む場所や身なりを制限したのは誰か
- (2) なぜ,彼らは差別されたのか
- 6 問い考えることの意味は何か
- 第3章 ホントの江戸はこうだった
- 1 参勤交代は絶妙の制度であった
- 2 江戸時代,身分は固定化されていたのか
- 3 慶安の御触書は農民の豊かさの証明である
- 4 百姓は重税に苦しめられていたのか
- 5 江戸の被差別民は貧しかったか
- 6 鎖国は日本の近代化を遅らせたのか
- 7 一揆は武士の圧政に対する抵抗だったのか
- 8 教科書や副読本ではどのような問題が出ているのか
- 9 私たちは江戸をどのようにとらえればよいのか
- あとがき
はじめに
もうかれこれ10年も前のことである。当時6年の担任であった私は,江戸時代の授業の中で慶安のお触書について教えていた。
「江戸幕府は『農民に酒や茶を買ってはいけない。』とか『木綿の服を着ないさい』といって,農民の生活を厳しく取り締まろうとしたんだね。さらには,『物見遊山という旅行に行くような奥さんは離婚しなさい。』といったきまりまでつくっていたのですね。幕府は,これだけ厳しいきまりを作って農民から年貢を取り立てようとしていたのです。」
そのとき,今でも覚えているが,「物見遊山をする女房は離婚しなさい。」という御触書に対して,怪訝そうに首をかしげる子どもがいたのである。
今となっては確かめる術もないが,多分その子は,御触書に書いてある内容が,本当に農民にとって厳しいものであるのか疑問に思ったに違いない。少なくとも,そのときの子どもの顔はそう語っていたように思う。
これも7年ほど前のことである。江戸の授業で「農民の暮らしは貧しいのか」というテーマで授業を展開していた。子どもたちは,教科書や資料集を調べ上げ,ほぼ全員が「農民の暮らしは貧しい。」と結論づけた。
しかし,その中に一人だけ,「農民の暮らしは貧しくはない。」と言い張る子どもがいたのである。
その子どもの言い分は,「百姓という言葉は百の仕事があるというほどいそがしいということだ。それだけ仕事があるのだから,百姓の収入も多かったはず。だから,農民は貧しくはないのです。」というものであった。
この意見に対して,当然のことながら,ほかの子どもたちから,「高い年貢があるではないか。」「厳しいお触れがあったのだから,農民は貧しい。」といった反対意見が出される。
すると,その子どもは,「でも,そんなに年貢を集めても武士は食べられないじゃないか。」と主張したのである。
この授業を行っていた当時,江戸の年貢が実際に考えられているほど高くなかったことは,ある程度知ってはいた。しかし,江戸の農民の生活については,士農工商の身分制の理解も含めて,貧しく過酷なものであると私自身,理解はしていたのである。
結局この授業では,教科書や資料集の資料を含めて,「江戸の農民のくらしは,身分制度や慶安の御触書,厳しく差別された人々の存在などから考えてとても厳しいものであった。」と結論づけた。「今から考えれば,江戸の当時に生まれなくて良かったね。」などと子どもに話した記憶もある。
そして,一人の子どもが主張した年貢率の謎は,当時十分な資料が手元に無かったことや,私自身の「江戸の農民の生活は苦しく貧しいものであった。」という既成概念もあり,それほど深く考えることはなかったのである。
ただ,これらの授業での出来事は,本当に江戸の農民の暮らしは貧しかったのかという一抹の疑念として私自身の中に残っていた。
今にして思えば,これら一連の授業は,実に象徴的な出来事として私自身の脳裏に蘇ってくることとなったのである。
近年の研究によれば,従来我々が抱いていた江戸のイメージは大きく復されてしまう。参勤交代,慶安の御触書や士農工商の身分制,そして鎖国。これまで私たちが理解していた江戸の常識は,ことごとく間違っていたといっても過言ではない。
参勤交代や鎖国は,日本の国土形成と発展にそれぞれ絶妙の役割を果たしていたし,身分制や年貢,百姓一揆のこれまでの解釈は,あまりに単純で且つ誤解に充ちていた。
これらの事実は,戦乱の世の終焉と江戸の安定政権の出現の中で相互に関連し,国土が豊かに発展していったことを鮮やかに示すのである。
これまで,私たちが教えてきた江戸時代は,私たち自身が受けてきた歴史教育によって形成された歴史観によって,あまりにも単純に,また過酷で抑圧されていたと描きすぎたのではなかろうか。
だとするならば,歴史教育における江戸の授業の在り方も,授業を支える教科書記述も含めて根本的に見直さなくてはならない。
本書では,従来の江戸理解の問題点と原点を探り,江戸時代の新しい授業実践を示し,これからあるべき授業の在り方について実践と,その授業を支える新しい解釈に基づいた江戸時代の姿を述べることで,これからの歴史教育の在り方について考えていく。
第1章では,当時の国土開発や農民の生活の豊かさと我々の歴史認識との間に生じる矛盾から,なぜ江戸を見直さなくてはならないのか,その意義について考える。
そして,これまで私たちは江戸をどのように理解していたのか,その実態を探る。さらに,わたしたち自身の江戸の時代観形成の原点となっている教科書記述の変遷について検討する。
第2章では,江戸時代の授業はどうあればよいのか,活用した資料や指導案の具体を示しながら,参勤交代や江戸の農民の暮らしなどの実践事例について述べる。
参勤交代の授業では,それらのもたらす経済効果に視点をおいた。農民の暮らしの授業では,教科書記述の矛盾点を子どもなりの論理性をもって追及させることを通して,鎖国や国土の発展についても触れながら,その豊かさを描く。
さらに,被差別部落の授業では,農民の生活に根差した差別を具体的に扱いながら,差別が生まれる原点を探っていく。
第3章は,第2章で述べた授業実践を支える江戸の時代解釈について,現行の教科書記述の問題点に明らかにしながら,最新の研究成果に踏まえて述べるいわば理論編である。
参勤交代は,どのような制度であったと意義づけられるのか。江戸の身分は固定化されていたのか。慶安の御触書はどのように解釈すればよいのか。江戸の年貢は高かったのか。鎖国は,日本国土の発展にどのような影響をもたらしたのか。一揆は武士の圧政に対する農民の抵抗だったのか。これまで,私たちが抱いていた江戸時代像の常識を,以上の視点から再検討していく。
江戸時代のことについて詳しく調べ始めて5年ほどになる。それ以来,これまでの授業実践の在り方について問題を感じただけでなく,教科書の在り方や江戸時代の誤解の原点,江戸から明治への歴史の連続性,現代にも連綿と息づく生活文化など様々な点で考えを新たにした。
それは正しく私自身の歴史観を問い直す作業でもあった。本書では,少しでもそれに迫ることができればと思っている。
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- 明治図書