- 特集 総合的学習が問う“あなたの教育観”
- あなたにとって総合的学習とは―何だったのか
- 何だったのかとは、何だ!
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- 社会科への先祖返り
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- 各教科などで習得した知識や技能等の明確化という視点での学習指導の見直し
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- 新しい授業創出の転換点
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- 社会科の役割を考える機会に
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- 「国語科」が自立・独立する「揺籃の場」
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- 教師の単元構成能力が試されている
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- 国語の授業の「開国」を迫る
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- 教師のカリキュラム開発に関する実践力を育てた「時間」
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- 「学び」を変えること
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- 「子ども観」の転換だった
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- 教師の力量にかかっている
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- 生まれたばかりの子ども
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- 教科学習を重視した総合学習を!
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- 生き方を考えるための時間として
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- 総合的学習―20世紀日本教育の壮絶な失敗だった?
- 二一世紀にふさわしい「学校教育」の創造の好機である
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- 「総合的な学習の時間」は本来OECDのPISA型学力、すなわち課題探究型の学力を目指したものである
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- 未発の可能性を求めて―挑戦は続く
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- 文科省課長も失敗を予言
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- 総合的学習―アレルギーの底流にある教育観
- 「教え・わからせ・理解させ」なければ学力はつかないという教育観
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- 利己主義か、利他主義か
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- 子どものことを後回しにする教育
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- 総合的学習―迷走に見る教育行政のあり方
- 迷走の果てにどのような道が……
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- いまの教育に欠けているものを総合的学習で
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- 社会参加を含まない総合的な学習をやめれば、教科の時数が増える
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- 教育史の中の“総合的学習”の検証
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- 総合的学習―誕生から今日への歩みを総括する
- 総合は七歳、協同的に「子育て」を楽しもう
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- 初心に還り、地についた実践を
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- 総合的学習―どうすれば現場に定着出来るか―21世紀へのメッセージ
- 総合的学習の解説を別冊で作成せよ
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- 総合的学習の精神と形づくり
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- 総合的、創造的な問題解決力の基盤を培う教育を!
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- 教師自身が総合的学習の実践者に
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- 総合的学習の成果は長い目で
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- 子どもについて日常的に語り合える同僚性の形成の場
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- 総合的学習の方向―世界の教育改革潮流から読む
- 新教科「市民科」の設立と21世紀型学力の育成
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- “自分探しの旅”と“世の為に自分を役立てる”教育観と
- 自己実現と社会貢献に通底するもの
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- メタファーの限界
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- “和食パワーの秘密”探検―食育の授業づくり (第12回)
- 日本が世界に誇る「だしの文化」を学ぶ
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- キャリア教育―総合で授業化する具体案 (第12回)
- 「なぜ働くの?」と聞かれたら
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- “設定された体験”から脱皮するプラスα (第12回)
- 納得いくまで追究する古代人の暮らし パートV!
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- 新指導要領改訂と授業づくり (第12回)
- 子どもの姿が示す総合的な学習の時間の価値と魅力
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- 総合でする子どもの実技体験
- 国語力を育てる体験活動 (第12回)
- 真の「生きる力」を育む学びを─総合の理念を国語科へ─
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- 算数力を育てる体験活動 (第12回)
- やっぱり算数は面白い〜面白さが支える本当の学ぶ力〜
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- 理科力を育てる体験活動 (第12回)
- 理科室で総合の学習を!
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- 社会科力を育てる体験活動 (第12回)
- 体験を身体に染みこませよ―本物!―
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- 総合的な学習の時間で行なう将棋指導 (第12回)
- 年間指導計画とその学習内容(第十二回)
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- 日本の伝統文化を授業する―生きる喜びを表現=調べる・造る・演じる (第12回)
- 「和菓子」を授業する
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- 編集後記
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- 小学校英語で使えるピクチャーカード〜コミュニケーションの力を育もう!〜 (第12回)
- ビンゴゲーム(高学年)
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編集後記
○…『文芸春秋』誌10月号に「平成皇室の危機は去ったのか」という討論会で、「“私”を捨てて、国民という“公”のために祈ってくれているという信頼が、日本人と皇室をつなぐ絆となってきた」「外務官僚としてのキャリアの延長線上に皇室外交ということを志して、公務の見直しをご夫妻で考えているのだとすると、それは皇室の伝統とは相容れない」という調子の、皇太子妃・雅子さま批判が大勢を占め、擁護する意見は掻き消されそうだった―のだそうです。
これを読んだ、井口優子さん(評論家)は、雅子さんが「皇室という新しい道で自分を役立てたい」という趣旨の覚悟のお言葉があったではないか―といいます。
また、「雅子さんが学ばれた欧米の大学では、単なる自己実現ではなく、自分の能力を社会にどう貢献できるかという志を重視する」とも、指摘されています(産経新聞、 9月28日)。
長々と引用したのは、学習指導要領が改訂されるときの、コンセプトとして有名になった文言「自分探しの旅」を思い出したからです。
日本語としてはあまりこなれていない表現が逆に新鮮ということでもあったのでしょうか、当時、賛同する人が多かったと記憶しています。
が、しかし、その後、こういうコンセプトだったことが、今日の教育批判を増大させたという意見も聞かれるようになりました。すなわち、
@ そもそも、これから、自分を創っていくという、いわばプロセス上にある、被教育者たる子どもに「自分探し」なんてありえないのではないか。大人になっても、自分というものがよく分からないのに。(ま、自分の本当の姿が見えてくると恐ろしくて正対できない―という意見もありますが。)
A 「自分探し」なんていうから、いつまでたっても、ありもしない?実像を求めてさまよう若者が続出しているのではないか。自分なんて、死ぬまで分からないのにと。(確かに、下賤な例えではありますが、私自身、自分が左腕だとは思っても見なかったのですが、ある時、重い雨戸を閉めていてふと何で左腕なの?と思い、それから日常生活を点検してみると、ボタンをかけるのも左のほうが早いしで、あれれ……でした。)
ところで、新設された総合的学習には、「自分探しの旅」と「ボランティア精神の涵養」が求められてきたように思います。
わたくしには、この両者こそが、最近は流行らなくなった言葉、アウフヘーベンされるべきではないかと思えてなりません。
その訳は、上記の雅子さまの決意表明の文言にもかかわる、
「単なる自己実現ではなく、自分の能力を社会にどう貢献できるかという志」
を育成することにあるのではないか―と思うからです。
このように、総合的学習をとらえるとするならば、<教育者としての、己の教育観>とも深くかかわる問題ではないか―という問いかけを、読者にもしていただきたいと願いました。
○…突然ですが、本誌は201号の本号をもって終刊することにしました。
「総合的学習」にこめられた新しい教育への願望は、結果として、21世紀初頭の日本では受け入れられなかったという証しでもある、と歴史的総括をされる時代がくることを期待して、“負け犬の弁”をしめくくります。
長い間、御支持下さった諸先生、ありがとうございました。また小誌を実務面で支えてくれた編集部木村悠さん、ありがとう。
(樋口雅子)
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