- 復刻版のまえがき
- まえがき
- 第一章 話すことと日常生活
- 一 話すことの楽しさ
- 二 話すことの意味
- 三 話すことの働き
- 1 認識機能
- 2 思考機能
- 3 伝達機能
- 4 社交機能
- 5 調整機能
- 四 話すことと生活
- 第二章 話す力を育てる心構え
- 一 だれだって話せる
- 二 健全な言語人格
- 三 確かな言語技術
- 四 話す力を育てる心
- 第三章 話す力の低い子ども
- 一 「話せない子」と「話さない子」
- 二 話せない子・話さない子の理解
- 1 「理解」の重要性
- 2 悪ではない
- 3 厄介者ではない
- 4 固定的ではない
- 5 成績ではない
- 6 沈黙の解釈
- 三 話せない要因
- 1 身体的要因
- 2 知能的要因
- 3 性格的要因
- 4 心理的要因
- 5 場面的要因
- 6 対人的要因
- 7 家庭的要因
- 第四章 教室指導のあり方
- 一 教師の役割
- 1 最大の環境
- 2 明るさとユーモア
- 3 心の広さと大きさ
- 4 手だてを教える
- 5 触れ合い
- 二 学級の役割
- 1 学級の雰囲気
- 2 基盤としての学級経営
- 3 話し言葉を育てる要素
- 三 家庭の役割
- 1 言語環境としての家庭
- 2 協力者としての家庭
- 3 集金のお金の貰い方
- 第五章 教室指導の実際
- 一 話し方技法指導の意義
- 1 技法指導の意義と限界
- 2 技法指導のポイント
- 二 話し方技法指導の基礎
- 1 挨拶と返事、その表情
- 2 声の調子の指導
- 3 攻めの言葉と受けの言葉
- 4 「声のものさし」への疑問
- 三 話し方技法指導の実際
- 1 「どうぞ」「ありがとう」「お願いします」「はい」
- 2 合図と号令の技法
- 3 報告、連絡、相談のしつけ
- 4 読書感想文の発表技法
- 5 学校劇の科白と動作
- 第六章 タイプ別話し方指導法
- 一 発音、発声に関するもの
- 1 声が小さい、よく聞こえない
- 2 幼児音、訛り、発音不明瞭など
- 二 言葉づかいに関するもの
- 1 返事や挨拶ができない
- 2 卑語や粗暴な言葉が多い
- 3 敬語や丁寧語が使えない
- 三 話の構成に関するもの
- 1 筋道立てて話せない
- 2 だらだらとまとまりなく話す
- 3 型どおりにしか話せない
- 4 短くしか話せない
- 四 話の内容に関するもの
- 1 わかりきった確かなことしか話せない
- 2 自分の気持ちや感想が話せない
- 五 場面に関するもの
- 1 授業になると話さない
- 2 学校または家庭では話さない
- 3 特定の人としか話さない
- 六 話し合いに関するもの
- 1 すぐ感情的になり、攻撃的になる
- 2 反対やあらさがしをしたがる
- 七 その他の問題行動
- 1 話し方が早すぎたり遅すぎたりする
- 2 いつも目をそらして話す
- 3 無口で進んで話そうとしない
- 4 むやみに発言したがる
- 第七章 よりよい談話生活のために
- 一 真なる言葉を育てる
- 二 善なる言葉を育てる
- 三 美なる言葉を育てる
- 四 聖なる言葉を尊ぶ
- 第ハ章 結びに代えて
- 一 相手あっての言葉
- 二 謙虚ということ
- 三 聞き耳を立てている教師に
- あとがき
復刻版のまえがき
学校の教師が最も多く子供に繰り返している言葉は何だと思いますか。古今東西を問わず、きっと共通していることでしょう。それは、「静かにしなさい」「話を止めなさい」という言葉です。先生も、きっと思い当たることでしょう。それほど子供達はおしゃべりが大好きで、得意です。話し方や話すことに困っている子なんかいないと言ってもよいでしょう。「話せない子・話さない子」なんて、一人もいないようにも思えます。
しかし、このような話し方は「自由気ままなおしゃべり、雑談」であって、必ずしも正しく、適切な話し方とは言えません。それぞれが、「話したいように話している」に過ぎません。相手にきちんと伝わっているかとか、この話し方でよいだろうか、というような話し方ではありません。それは、無意識、無自覚、無関心な話し方であり、自分中心、自分本位の気楽な話し方です。相手や、聞き手に対する聞きやすさや分かりやすさなどはほとんど眼中にありません。このような話し方を、私は「私的話法」と名付けています。日常の生活話法はほとんどが私的話法です。
望ましい話し方というのは、聞き手が聞きやすく、分かりやすく、楽しくなるような条件を備えたものです。相手本意、相手中心、聴衆尊重の話し方です。それは一般的には「常より大きく、常よりゆっくり、常よりはっきり」した話し方です。私はこれを「公的話法」と呼んでいます。
話し手である自分は、相手のために多少の努力や無理をすることになりますから、公的話法は「常」に比べれば多少不自然になります。私はこれを、「価値ある無理」「価値ある不自然」と呼んで奨励しています。
国語教育が目指す話し方は、まさにそのような話し方なのです。このような話し方の心構えや技術を全ての子供達に習得、体得させることができたとすれば、子供達の日常会話はどんなに豊かなものになることでしょう。
話し言葉は、あまりにも便利で重宝なので、ついつい無意識、無自覚、無関心のままで使われがちです。また、そのような話し方でも、その場の雰囲気や表情に助けられてほとんど不自由なく伝わってしまうのです。かくして、指導する立場の人もまた、子供の話し方に格別の注意を払わなくなりがちです。
その結果、きちんとした話し方、適切な説明、効果的な伝達などを不得手とする「話せない子」や「話さない子」が生まれてくるのです。「話せない子・話さない子」は、子供の話し方に対する教師の無意識、無自覚、無関心が生み出した結果である、とも申せましょう。むろんのこと、教師だけの責任と言うつもりはありません。家庭における言語生活のあり方にも一因があるでしょう。しかし、学校教育は、家庭生活や社会生活の中だけでは養えない様々な力をつけていく教育の専門機関です。そのことに気づけば、私達教師の話し言葉に対する無意識、無自覚、無関心は許されることではありません。私達教師が、時々刻々目前に生起する子供の様々な言語活動に対して、意識的、自覚的な観察をし、常時善導を心がけるならば、「話せない子・話さない子」を救うことは十分に可能なのです。
そして、そのように努めることは、単にそのような子供を救うだけではなく、お互いのコミュニケーションをスムーズに導き、授業を楽しく明るく効率的なものに高め、学級づくりの上でも大きな力を発揮してくれることになるのです。ただし、話し方というものは、ちょっと油断をすると元の状態に逆戻りしがちです。ちょっと手をゆるめると、せっかく築いた良い話し方も、あっと言う間に崩れてしまいます。根気強く、いつでも、どこでも教師の「聞き耳アンテナ」を磨いておかないといけません。
本書は、二百ページあまりの大冊です。手っ取り早く読めてすぐに使い物になるというようなお手軽な本ではありません。また、そうであるからこそ三六年間にも亘って色褪せることなく読み継がれ、『名著復刻』の栄に浴せたのだとも申せましょう。およそ「一気読み」などできる代物ではありません。少しずつじっくりとお付き合いください。そうすれば、必ずや「話せない子・話さない子」の苦しみや淋しさを軽減させ、人間本来の持つ話す楽しみ、話す喜びを持たせることができるに違いありません。
本書の原著は、昭和五六年(一九八一年)三月、私が四五歳の折に「小学校国語科授業技術全書」の一冊として、当時名編集長として知られた江部満氏から下命されて世に出たものです。明治図書出版は、名実ともに日本一の教育図書専門出版社です。その明治図書出版から、初めて私に単著出版の機会を与えてくださったのが江部編集長でした。今も同社の看板月刊雑誌である『教育科学 国語教育』は、江部さんが二九歳の折に創刊されたものです。当時の明治図書は単校本専門の出版社で雑誌は持っていませんでした。江部さんは「雑誌を出さなければ会社を辞める」と言って社長に迫り、社長が不承不承許したということです。
その江部さんから私に話があった書名は『話せない子・話さない子の指導法』でした。しかし、不遜にも私はこの書名に異議を唱えました。「法」の一字を削ってください、『話せない子・話さない子の指導』として欲しい、と頼んだのです。「何を生意気な!そんなら頼まない!!」と一喝されて当然でしたが、江部編集長は「なるほど、分かった」と言ってくださったのです。「法」の一字があると単なる技術論、ハウツーものと勘違いされかねないという私の思いを、江部大編集長が受け入れてくださったのです。こうして私の原著が世に出ることになりました。
本書は幸いにして広く読まれて一四版を重ねました。私の本はベストセラーになったことはありませんが、幸いにして大方がロングセラーになっています。「流行を追わず、不易を求める」「常に根本、本質、原点に立脚する」「本音、実感、我がハートに忠実」「必ず実践を潜らせて理論を導く」という私の執筆方針が、多くの方から支持された結果であろうと私は考えています。
「話せない子・話さない子」は、どのクラスにも、どんな団体にも一、二割は存在するのではないでしょうか。このような子供を、どのようにとらえ、どのように理解するのが、教育としては妥当なのでしょうか。むろん、いろいろの考え方がありますが常に「根本、本質、原点」に立脚して考えていくことが肝要です。
当節のあり方としては、そういう弱い子供の立場に立って、無理をせず、あせらず、優しく、温かく、という受容的、共感的理解の下に指導に当たるべきだということになるでしょう。仮にこれを「個性尊重」の立場と呼んでおきましょう。このような接し方、話し方に反対するのはなかなか困難な風潮にあります。
しかし、私は少し違った立場にあります。教育という営みは、結局のところ「そのままにしておかない」ということだと、老境に入って強く思うようになりました。「話せない」「話さない」というのは一つの現象、一つの状態です。その現象や状態を生み出している要因、根拠、心理、感情というものは、大方が「自分本位」であると思うのです。「恥ずかしい」「うまく話せない」「笑われたくない」「目立ちたくない」などなどの思いがあるでしょう。そこに、共感的、同情的にかかわるのが「個性尊重」の立場です。
教育は「そのままにはしておかないこと」「常によりよくその子を変えていく営み」という立場に立つと、教育の姿勢は少し違ってきます。「話してみよ」「このように言ってみよ」「先生の真似をせよ」というやや強い姿勢になります。そして、そのような半ば強制による善意の働きかけによって「やったらできた」「自分にもできるのだ」という思いがけない自己発見や自信が生まれることがあります。簡単に言ってしまえば、「攻め」の教育、「硬派の教育論」です。当節、このような教育の仕方は「押しつけだ」「強制だ」「子供の立場を無視している」「横暴だ」などと指摘され、時には指弾さえもされかねない風潮にあります。
しかし、教育というものは、目先の優しさや、甘やかしよりも、先を見据えた「自立への導き」こそが本来のあり方ではないでしょうか。戦後の、一見優しく温かく見える「子供中心主義」「個性尊重主義」「多様性への寛容」というような教育思潮が、結果的に子供を思いがけない不幸に追いやっていることはないでしょうか。私には、現代の日本の子供は、どうも昔の子供に比べて身も心もひよわになっていささか不幸に見えてなりません。
「話せない子・話さない子」を「話せる子・話す子」に成長させていく、本物の教育論、指導論にどうぞ先生も向き合ってみてください。本書による著者との心の対話を期待致します。
平成二九年五月 若葉薫る観音堂にて /野口芳宏記す
-
- 明治図書
- 名著復刻の名に恥じない内容だった。既に退職しているが,後輩たちに背中を押されて行っている勉強会の資料として,活用させていただいた。2018/1/1060代・小学校教員