「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ」。30〜40代の日本人ならば、このセリフを聞いただけで、あの場面が頭の中によみがえり、目頭が熱くなることでしょう。それほどわが国の子どもたちに大きな影響を与えた「フランダースの犬」ですが、海外での評価は決して高くないらしいのです。
12月25日の読売新聞の記事によると、ベルギーで「フランダースの犬」を検証する「パトラッシュ」というドキュメンタリー映画が制作されました。ルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人を見たことが、きっかけとなったとのことです。
地元ベルギーでは評価されず、また、アメリカで映画化されたときには、結末がハッピーエンドに書きかえられているこの作品が、なぜ日本ではこのように高く評価されているのか?
プロデューサーのアン・バンディーンデレンさんは、こう言っています。
日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの。(同記事)
たしかに頷ける部分はあります。「僕はもう疲れたよ」というセリフは、西郷隆盛が切腹を決意したときに吐いた「晋どん、もうここらでよか」という言葉にどこか通じるものを感じます。うまく言い表せませんが、死を前にして潔く、決して激昴せず、恨まず、粛々とした感じ…。こういうのに日本人は弱いのかもしれません。
でも、それだけでは分析不足でしょう。日本において「フランダースの犬」は、アニメという形式で浸透したという点、そして、その大半が、原作にないオリジナルのストーリーで占められていたという点が見落とされているのではないでしょうか。またアニメ版では、親しみ安さを考慮して、犬の種類がセント・バーナードに変更されました。これも意外と重要なポイントかもしれません。
何が言いたいかというと、彼らの「フランダースの犬」と私たちの(記憶にある)「フランダースの犬」は、まったくの別物なのではないか、ということ。そう考えると、ラストだけを議論してもあまり意味がないなあという気がします。映画では、そのあたりまで考察が進められているのか、気になるところです。
さて、冒頭で紹介した「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ」というセリフ。こういうセリフがあったと思い込んでいる方が多いようですが、実はちょっと違っていて、「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ」が正しいらしいです(アニメ版)。こっちのほうがいいですね。そして、「なんだかとても眠いんだ。…パトラッシュ…」と続きます。ああ、書き写していて、泣きそうになりました。
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日本人はハチ公とか南極物語とか忠犬好きなのと、判官びいきに代表されるように弱い者好きがあわさった結果じゃないですかね。
やっぱり頭にはアニメの映像が焼き付いていたからなのかな。