きょういくじん会議
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「ごんぎつね」では習得⇔活用の授業はできない?
kyoikujin
2009/3/4 掲載
ごんぎつね (大人になっても忘れたくない いもとようこ名作絵本)

 2月28日、「国語科の授業力の向上をめざして」をテーマとして東京学芸大学国語教育学会公開研究大会が行われました。公開授業は「ごんぎつね」。最後の「6」の場面=ごんが兵十に撃たれる場面です。
 「物語を読み深めよう〜感動のしかけをさがしながら〜」と題して、作品に同化しながら読むだけでなく、叙述をもとにして客観的な読みの技術の習得をもめざした授業は、その後の協議会で意見が大きく割れました。

意見が割れた点

  • 「ごんぎつね」は単元の終末で子どもたちが涙するくらい感動する、力のある教材。「しかけ探し」のような活動をさせるのではなく、どっぷりと読み浸る経験をさせることが重要であり、涙の授業をめざすべきだ。もちろん読みの技術は必要だが、やるならば「ごんぎつね」ではなく他の作品でやるべきだ。
  • 「ごんぎつね」は力のある教材だからこそ、「読みの技術」を教えるには適している。言語力の育成が求められているなか、他の作品を読むときにも「活用できる読みの力」をめざした本授業は提案性が高い。

 国語教育史でもたびたび論じられてきていますが、何を教えているのか曖昧だと言われる国語科。教師の側の指導観にもかかわる大きなテーマだと思います。新しい指導要領の趣旨とも関係してきます。皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。

※以下は当日の授業の概要と「ごんぎつね」のあらすじです。関心のある方はどうぞお読み下さい。

単元の概要

1次:初読の感想を書く。(第1時)
2次:感動のしかけを場面ごとにおさえていく。(第2〜7時)
 (本時は2次の最終場面=第7時)
3次:作品の主題について考えさせる。(第8時)※全8時間

 作者が使っている「感動のしかけ」とは、読者からすると「読みの技術」ということになります。
 例えば、ごんも兵十も「一人ぼっち」であることが感動につながっているという「人物設定」や、ひがん花の赤が象徴的な場面をつくっているという「」などに着目させることで、読みを深めさせたいというねらいでした。

本時授業の概要

1.前時までに見つけた「しかけ」を振り返る。(5分)
2.6の場面を「しかけ」を探しながら音読し、新たに見つけたものがあればノートに書きとめる。(5分)
3.どんな「しかけ」があるか、その効果は、その意見に反対・付け足し、など教師の司会のもとで話し合う。(25分)
4.話し合いをふまえて自分の感想を書く。(5分)

 本時の授業では最終場面で見つけた「感動のしかけ」を発表しあい、人物・情景・視点・構成に分けて整理していきました。
 実際、子どもたちも「しかけ探し」を楽しみ、「人物」「視点」などの言葉を使って活発に発表を繰り返します。なによりも、友達の意見に関わらせながら、最終場面での「しかけ」がその前までの場面の「しかけ」とどうつながっているか、という点にまで言及しながら意見を言う子どもの姿には驚きました。

「ごんぎつね」のあらすじ

 よく知られた作品ではありますが、念のためあらすじと教材特性を少しまとめておきます。

 一人ぼっちの小ぎつねごんは、村人が困るいたずらを毎日のように繰り返していた。
 あるいたずらがきっかけで、母親が死んで同じ「一人ぼっち」になった兵十という若者に同情し罪の意識を感じていく。
 それからというもの、山で拾ったくりやまつたけを兵十の家に気付かれないように届けるなど償いを始める。しかしそんなこととは知らない兵十にはごんのその想いは届かない。
 最後には「またいたずらに来たな」と思った兵十に火縄銃で撃たれてしまう。直後に兵十は家の土間に置かれたくりを見て「ごん、おまえだったのか」と気付き、ごんはうなずいて息を引き取る。

 ごんの視点でほぼ全編が描かれるため、子どもたちはごんに同化して読み、撃たれてしまうという結末に大きく心が揺さぶられることが多い教材です。
 新美南吉の原作ではありますが、「赤い鳥」の鈴木三重吉によってリライトされたものが定番として教科書に掲載されているため、元の作品がもっていた雰囲気とは異なると言われています。

この記事は、『きょういくじん会議』の記事を移転して掲載しているため、文中に『きょういくじん会議』への掲載を前提とした表現が含まれている場合があります。あらかじめご了承ください。
コメントの一覧
1件あります。
    • 1
    • かな
    • 2010/3/19 9:15:56
    なんで、主人公キツネ?
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