1.ひとつのエピソード
三年生の作文の教室。わたしは廊下側の女の子が書いている「冷蔵庫の片付け方」という題の作文を読んでいた。そんな静かな教室で「先生」と、小さな声がしたので顔を上げた。「オウムの飼い方」の作文を書いている男の子が手をあげている。
「どうしましたか」
「オウムがバードフードを食べるんやけど 食べ終わったって書いたら全部 食べてしもたみたいやろ ちゃうねん 全部ちゃうねん。食べ終わったけど終わってんと まだ残ってんねん どう書いたらええんやろ」
「食べなくなったら はどう?」
「ああ そうか もう食べへんようになったらかあ もういらんようになって食べへんようになったらかあ」
わたしは窓際のいちばん前に座っている子どもに呼ばれ、そちらへ移った。
休み時間。職員室で書き上がったばかりの作文を読んでいた。どの子どものものも気になる。急いで読みたい気持ちをおさえてゆっくりと読む。一人で黙々と書いていた子どもの作文ははじめて読むことになる。なるほどとうなずかされる。何度かやりとりをした子どものものはその過程が目に浮かぶ。
オウムの作文が出てきた。「バードフードはからだけをのこすので、インコが、もうそれい上食べなくなったら、かるくふいてあげましょう。」と書いてある。
「もう、それい上食べなくなったら」とある。「食べへんようになったら」か「もういらんようになって食べへんようになったら」と書いているとばかり思っていた。
「食べなくなったら」はわたしの真似ではない。「それい上」ということばが付いている。おまけに「もう」まで付いている。いや、付いているのではない。どうしても「もう、それい上」と表現しなければならなかったのだろう。どうしてもこのことばでなければならなかったのだろう。
2.声が響き合う教室
誰もが臆することなく自分の言葉で語る教室。唇をはなれた言葉を受け止めてくれる人がいる教室。声が幾重にも重なり、響き合う教室。
教室をそのような空間として育てていくためには教師は何よりも「子どもの声を聞く力」をもたなければならない。子どもの声の聞き手として教師は安心できる存在でありたい。
3.声を共有する教室
教師にとって「子どもの声を聞く」というあたりまえの行為は思いの外むずかしい。目を見ながら聞く、うなずきながら聞く、共感的に聞くことはもちろんであるが、子どもの整っていない発話を聞くには、「それなりの聞き方をする」ということを意識しなければならない。子どもの発話に見られる微妙なイントネーションの特徴やプロミネンス、普通ではない語順や省略。指示やいいさし、文末表現。この発話はどのような心の態度で発せられているのかを聞き、声を共有する教室を目指しながら、きょうも教室で子どもの声に浸っている。
子どもの声を聞く。それはその通りだと思いながら、ことばを相手にしている私であるのに、最近はその「ことば」をあまりあてにしていません。ことばというものは、表象を切り取る時に操作されて現れてくるものですから。私などは、「声」「ことば」といわず、「こころ」と使いたいとさえ思っています。「こどものこころを聞く」その一つの手だてとしての「ことば」のように思えてなりません。コミュニケーションの上で登場していることばと文学として登場していることばは、その働きそのものが違っているのかも知れません。拝読して、ふとそんなことを考えました。
ことばに耳を傾けるのとは違い、意識的に児童の「ことば、声」聞かないとこちらも気付かないことがあるのではと思いました。
大学の教授という立場でありながら、小学校現場にもよく出向かれている姿勢には感服いたします。
1学期を振り返り、子どもたちの声に真摯に耳を傾けていられただろうかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
せっかく先生に種をまいていただいた「子どもの声を聞く」ということ。研究のためだけの耳で終わるのではなく、何気ない日常を子どもたちと過ごすなかで、もっともっと磨いていかなければと感じました。
この思いをしっかりと胸に抱いて、明日からまた、がんばります。
「子どもの声を聞く」ことばにすれば簡単ですが、実践するのは本当に難しいことです。
子どもの声には、子どもの思いが込められています。その子どもの声を受け取るのは、こちら側の度量でしかないと思います。そのためにも私自身の「聞く」という力を磨いていかなければならないなと強く感じました。
すーっと頭と心に入ってくる、その”オウム”の子の顔まで出てきそうな、そんな感じです。
ひとりの子どもが、自分の思いを伝えるために言葉を考え、選び、使って表現する。そこにある成長や喜びに立ち会える教師。この仕事のすてきなところだと思います。日々の中でこういう場面を見逃さずにいることが、育てるということなんだなぁと、今、なんだか新鮮な気持ちになれました。
〜はどう?というたずね方だったから、児童も考えて自分の表現をみつけだしたのだと感じました。
私は、達富先生のように子どもたちの声を拾う器はそう大きくないです。けれども、広げる努力と聞く姿勢をもって実習に挑みたいです。
パ・リーグ広報部長だった伊東一雄さんの野球解説が大好きでした。今になってやっとその理由がわかりました。野球や野球選手に対するあこがれです。子どものような「心の態度」があったのです。
明日から学校で,また子どもたちの「心の態度」をさがすことにします。「それなりの聞き方」ができるでしょうか…。
コメントを書くことに,すごく時間がかかってしまいました。それは,この文章を読み,考えることが多くあったこと,それを短い言葉で表現することの難しさを感じたからです。もしかすると,子ども達も学校で同じような気持ちになっているのかなあと感じました。
さて,「声を共有する教室」では,「聞く」ことに視点をあて,聞くことの大切さは勿論のこと,「それなりの聞き方」を科学的に捉えることの大切さをも伝えられているように思います。そこで見えてくる子どもの心の態度を感じるとることが,教師の力量であり,教師に求められていることではないでしょうか。
やはり,日々,勉強と実践の繰り返しだなと強く感じました。
教壇に立った時に、子どもたちが安心して発言できる教室、声を共有する教室を作っていけるように、これから先生のもとで「教師の聞く力」を高めていきたいと思います。
子どもの声を聞くことで、子どもの心からの思いを受け止めることにつながる。
先生はぼくの気持ちを受け止めてくれている。
それが安心につながり、
先生が一人ひとりの思いを受け止めている姿を見ることで
自然と子どもたちも人を受け止められるようになっていく
安心できるクラスになっていく。
わたしはこのような感想を持ちました。
「安心できるクラスにしよう!」
そんなことばだけでは、安心できるクラスなどできませんよね。
―教師にとって「子どもの声を聞く」というあたりまえの行為は思いの外むずかしい
確かに。日々どうすればいいのだろう、という悩みがあります。しかし、悩むということは次を目指しているということ。悩んで出していく答えが子どもたちのためになるようにと、「声を聞く」ことを意識しながら、明日からまたがんばりたいです。
つまり「言葉=心」⇔「言葉=心」で、「言葉⇔心」。
言葉のやり取りは、言葉と心のやり取りです。
たくさんの子どもがいる教室(学校)では難しいことかもしれませんが、できないとあきらめてはならないことですね。
先生が一人の子と顔を合わせ、向き合い、受けとめ、聞いているという姿を他の子どもが見る。その姿を見た子が自分の意見を言っても大丈夫、言いたいという気持ちになる。みんなで賢くなっていく。先生は、焦ることなく、こどもの声を素直に聞くという原点を確かめることが出来ました。ありがとうございました。
何度も読んでいるうちに大学時代に達富先生から教わったこと、先生の言葉が詰まったファイルを自然と片っ端から読んでいる自分がいました。
先生のことばを聞くと大学生に戻ります。達富ゼミが無性に恋しいです。