宇野弘恵直伝! 今月の極意
高学年男子は、「オレ様」で「お子ちゃま」。人より抜きんでたい意識と、素直な単純さを併せもった存在。そんな高学年男子の問題行動には、なぜダメかという根本を伝えることと、あなたが大事だよというメッセージで情に訴える指導が効果的です。
高学年男子は「オレ様」である
思春期真っ只中の高学年男子は、あれこれ指図されるのが嫌いです。わかっていることをくどくど言われたり、しつこく聞かれたりするのも嫌いです。また、上から目線で言われるのも嫌いですし、決めつけられることも嫌いです。
これらのことは、高学年女子だって同じでしょ?と思われるかもしれません。もちろん、思春期の特性に鑑みると男女に関係なく、こうした傾向はあるでしょう(思春期の特性については、第4回で詳しく書かせていただきました。お読みいただけると幸いです)。潔癖症的にこれらを嫌う女子とは違って、男子は「オレ様の前に立ちはだかるなー!」のごとく嫌うのです。
教師の依怙贔屓を例に考えてみます。依怙贔屓は誰しもが快く思わないものですが、女子は自分が贔屓されなかったことに怒りを覚えます。対して男子は、平等性が担保されなかったことに不満をもちます。つまり、根底には、女子は自分が特別扱いされたいという心理があり、男子は平等に扱われたいという心理があると読みとれます。女子は特別扱いされることで自己満足を満たし、男子は平等に扱われた上で抜きんでたいという野心があるとも言えるでしょう。つまり、女子は「飛び抜けさせてもらう」に対して、男子は「飛び抜けたい」のです。だから、「オレ様の前に立ちはだかるなー」と言う論になるのです。
高学年男子は「単純」である(男性のみなさん、ごめんなさい)
一般的に、男子より女子の方が約2年早く思春期に突入すると言われています。よって、小学校高学年時は女子に比べ男子の幼さが目立ちます。女子より男子の方が単純と評され(なぜ女子の方が複雑かについての詳細は割愛します。詳しくは、『タイプ別でよくわかる! 高学年女子 困った時の指導法60』をお読みください)、理屈的に納得すれば後腐れがありません。昨今、高学年女子のように感情に翻弄される男子も散見されるようになりましたが、それでもやはり女子に比べると「単純」「さっぱりしている」のではないでしょうか。
「単純」というと、能力が低いかのように聞こえてしまいますが、決してそうではありません。「素直」「わかりやすい」「無邪気」と言った意味を含み、裏のない人柄のよさであると私は思います。高学年男子は、オレ様でありながら、どこか子どもらしい単純さをもった存在と位置づけると、自ずと対応法も見えてくるではないでしょうか。
高学年男子には、理屈で情に訴える
例えば、靴のかかとを踏んでいる男子がいたとします。多くの場合は、一言いえばすぐに直すでしょう。しかし中には、頑として靴を履こうとしない男子がいます。そんなとき、あなたならどう説得しますか。
@厳しく叱責し従わせる
「おい!かかと踏むな!靴をはけ!」
なんていう「頭ごなし」指導は、「オレ様男子」はカチンと来ます。自分より強そうな先生になら仕方なく従うかもしれませんが、そうでなければ食ってかかってくるかもしれません。あるいは、露骨にふてくされた態度で感情を露わにするかもしれません。
「俺はこれでいいです。なんではかなきゃならないんですか」
と屁理屈をこねることも考えられます、すると、
「つべこべ言わずにはけ!普通、靴ははくもんだろう!!!」
なんて、さらに頭ごなしの指導になってしまうでしょう。こうなると男子は、理不尽なことに力づくで従わされたと感じ、反発心が湧き、関係性が悪くなることは必至です。
A寄り添い指導で自主性に任せる
T「靴のかかとを踏まないで、ちゃんとはこうね」
C「いや、俺は、はきたくないんだよね。暑いから」
T「そっか、暑いのは嫌だよね。わかる。じゃあ、廊下に出るときははくんだよ」
C「はい」
というやりとりが成立したとします。このとき、男子は、教師のことを理解力のある優しい先生だなと思うでしょう。自分を受け入れてくれるいい先生だと思うでしょう。しかし、「寄り添ってくれる」の背景には「自分は許してもらえる」という甘えを生むリスクがあることを視野に入れているでしょうか。無意識に、あの先生なら思い通りにできる、わがままを通せると判断している可能性があるのです。
大人の例で考えてみましょう。今日締め切りの職員会議の提案文書を忘れていていました。 教頭は、
「別にいいよ、間に合わなかったら口頭でいいじゃないか」
と笑顔で許してくれました。なんてやさしい教頭なんだと思うかもしれません。よし次こそは遅れないぞと思い実行できればいいですが、どうでしょう。また許してくれるなと思えば、普通は気が緩むものではないでしょうか。教頭は何でも許してくれそうだな、と思うのではないでしょうか。そうすると、本来守られるべきことが、なあなあになる可能性はないでしょうか。
自主性に任せると言えば聞こえはいいですが、これでは何もしてないのと同じです。単なる黙認です。次の見通しがないままやみくもに「寄り添ったふり」をしていれば、問題行動は際限なくエスカレートしていきます。先生は何でも許してくれる、だから、廊下でも靴は履かない、ときどき飛ばして遊ぶ、だって楽しいんだもん、先生もわかるよね?この楽しさ…という論が成立してしまうのです。
(私は、決して、「寄り添うことは甘やかしだ」と言いたいのではありません。子どもの感情や気持ちに寄り添いながら、共に問題解決を目指す姿勢がなければ、それはただの黙認であり、無責任であると言いたいのです。寄り添うことは子ども理解の基本ではありますが、寄り添いっぱなしは危険をはらむ可能性があるということを念のため付け加えます)。
Bだから、理屈で情に訴える
靴をはきたくない気持ちはわかります。かかとを踏みたい気分の時があるのもわかります。自分の靴なんだから先生からとやかく言われる筋合いないだろうというのも、一理あると思います。では、なぜ「かかとを踏んではいけない」という指導をしなくてはならないのでしょうか。
その理由はただ一つ。安全確保のためです。いつなんどき緊急事態になるかわかりません。災害が発生し、その場からすぐに逃げなくてはならなくなるかもしれません。その時に、かかとを踏んでいては安全に逃げ切れないかもしれません。靴が途中で脱げれば自分がけがをします。その靴につまずいた人が転んで、惨事になることだって考えられます。学校では、子どもたちの命が最優先に守られなくてはなりません。命を守るのは教師の責務です。私たち教師は子どもたちの命を守ることに責任をもっているからこそ、靴をちゃんとはかせなくてはならないのです。
ものを大事にすることとか、買ってくれた親の気持ちを踏みにじるなとか、マナー違反でだらしないとかということももちろん必要な指導です。でも、それは最終的には個人がどうするかの問題であり、教師が強制しきれるものではありません。靴のかかとを踏ませるべきでない根本的な理由は、子どもの命を守ることにあると私は考えます。ですから、頭ごなしでも黙認でもなく、この根本がわかるような指導をすべきだと考えるのです。
T「あれ?もしかして、靴のかかと踏んでる?」
C「あ、暑いから靴はきたくないんです」
T「わかる。暑いと嫌だよね。でもはいて」
C「え、嫌です。なんではかなくちゃならないんですか。誰にも迷惑かけてません」
T「今もし地震が来たら、あなたちゃんと逃げられないでしょ。靴脱げてけがしちゃうでしょ。だからはいて」
C「あ、俺、運動神経いいから、かかと踏んでても大丈夫です。靴脱げても平気です」
T「あのね、私はね、あなたの命を守る責任があるの。今もし地震が来たら、私は自分の命に代えてでもあなたを守るのが仕事なの。あなたの脱げた靴につまずいて他の人がけがするかもしれないでしょ?わかる?」
C「わかるけど、暑いんだもん」
T「わかるのにはけないって…。もしかして、靴紐結べないの?結んであげるよ」
C「いいです!自分でできます」
T「遠慮しなくていいよ!縛ってあげるからー」
C「自分でちゃんとはきます!」
理詰めで納得させようとしているので、言い方によっては頭ごなしに聞こえてしまうかもしれません。そうならないために、にこやかに穏やかにささやくような声で話します。決して威圧的にはなりません。そして、「あなたの命を守ることが私の使命」ということで情に訴えかけます。
最後の「はかせてあげる」は、子ども扱いされたくない思春期特性と、「オレ様」でありたい心理をくすぐるとっておきの方法です。でもこれは、若い先生には使いこなせない技かもしれません(笑)。
今月のまとめ
- 頭ごなしも黙認も危険。
- 根本を理屈で語る。
- 「あなたが大事なの」のメッセージを盛り込む。
やだなぁこんな教師…。親や教師ってなんでこうなんだろ。。。