1 はじめに
道徳の教科化についての論議は、これまで何度も繰り返されてきた。直近の学習指導要領改訂の際も話題となり、政権交代がなされた今また、いじめ問題の解決策として道徳の教科化がこれまで以上に現実味を帯びて語られている。
2013年3月に行われた教育zineのEduアンケート※1によると、教科化賛成が23.5%、反対が73.5%、その他が3%だった。2007年の調査※2では、賛成17.1%、反対75.3%、その他7.6%で、今年、賛成が微増しているが圧倒的に反対派が多いことは変わらない。しかしこのアンケートはおそらく、そのほとんどが教育関係者による回答だったのではないだろうか。これに対しRPデイリサーチの今年の調査※3では、賛成37.9%、反対21.4%、わからない40.7%と、反対を賛成が上回る結果となっている。
道徳の教科化に対する教育関係者の考えと、それ以外の人達の考えには温度差があるようだが、賛否それぞれの根拠を概観し、私自身の考えをまとめていきたい。
2 教科化反対論
それ以前に
いじめの原因は道徳授業がなされていないからではなく、道徳を教科にする前にやるべきことがある、という主張。例えば、教師の仕事軽減、保護者の経済格差の是正、学校だけでなく家庭や地域で取り組むべき等の考えがある。
評価になじまない
道徳を教科にするということは当然、評価・評定がついてくるが、子どもの心は評価・評定できないし、すべきでないという主張。道徳の教科化を考えるとき、決して避けては通れない問題。
修身復活反対
そもそも道徳は修身の延長線上にあるもので、教科化するということは修身科を復活させることになるという主張。昭和33年に道徳が特設された頃から比べればずいぶん下火になったが、未だに道徳=修身=軍国主義復活という図式から抜け出せない人達がいることも事実。
道徳は教えられない
道徳を教科にするということは、道徳を教えるということ。しかしそれはインドクトリネーション(注入主義)につながるものであり危険だと主張するもの。これは徳目そのものに対する反発でもある。
3 教科化賛成論
歴史的必然
戦後、GHQの指令で修身・日本史・地理の授業が停止された。しかし、日本固有の道徳教育を復活させたいという動きが底流として存在し、天野貞祐文部大臣が積極的にこれを進めたことに端を発するもの。昭和25年、教育課程審議会の同意が得られず道徳の特設は見送られたが、道徳教育の手引き書は全国に配布された。そして昭和33年の学習指導要領から道徳の特設が認められ現在に至る。
教師や国民の意識改革
道徳が学習指導要領上に位置づけられているにも関わらず、道徳授業をきちんと行っていない教師がいる。道徳を教科にする(通知表にも記述するようになる)ことで、嫌でも道徳授業を行うようになるという主張。また、道徳授業がこれまで通りの扱いでよいのか、教科にすべきかを話題にすることで、道徳に対する国民全体の意識を高めたいという考えもある。
「領域」軽視への反発
道徳を教科に格上げ、という言葉に代表されるように、教科は領域より格が上であり、道徳を格上げすることできちんと扱われるようになるという主張。しかし、道徳に評価はそぐわないという立場から「特別教科」にしようという考え※4もある。
道徳を教えることを厭うな
徳目を教えること抜きに道徳教育はあり得ない。道徳についての知識がないのに心を育てようがないという主張。教科として系統的に道徳的知識を教え、その上で道徳的な心情や判断力を養い、実践へとつなげていこうとするもの。
4 賛否の先にあるもの
まず、議論のテーブルに着こう
道徳=軍国主義、道徳の教科化以外にすべきことがあるといった、この議論に蓋をしたり避けて通ろうとしたりする考えをまず改めたい。それをやっていてはいつまで経っても前に進まない。
大きな災害があったとき、ルールを守る、助け合う、我慢するなど日本人の美徳が語られる。その一方でいじめや自殺、マナーの悪さや暴力なども日常的な問題になっている。何度学習指導要領が改訂されても、依然としてこの国の心の教育の先行きが見えない。
道徳の教科化が話題になっている今だからこそ、この議論のテーブルに着き、未来を生きる子どもたちのために、この国の心の教育の在るべき姿について語り合おう。
子どもを真の学びの主体者にしよう
学びの主体者は子ども自身である。このことを否定する人はいないだろう。では、評価の主体者は子どもではないのか。少なくとも現在、評価の主体者は教師なのだろう。
例えば跳び箱で8段、開脚跳びが行えた。教師の評価はAだった。しかし当の子どもはもっときれいに、もっと高く跳べるはずだからAではなくBにしてほしいと主張する。このことをどう考えたらよいのだろう。もちろん子どもの自己評価を取り入れている学校も多い。しかしそれはあくまで途中の評価であり、最終的な評価(評定)は教師が決めているのではないだろうか。
学びの主体者が子どもなら、本来評価の主体者も子どもであるべきだろう。その子どもの自己評価を支えるために教師評価があり、子ども同士の相互評価があり、保護者の評価がある。学び手の満足や納得のないところに評価はあり得ない。
そう考えるなら、道徳授業にも評価があってしかるべきだろう。子ども自身が自分の心の成長を感じ取り、自分の生き方や在り方について自己評価を積み重ねていく。それこそ自分の生き方に責任をもつ姿なのではないだろうか。
道徳授業の評価を考えることで、「教科」の評価の在り方を再考するきっかけとしたい。そうなったとき、「教科」と「領域」を隔てる壁は、自然に消滅するのではないだろうか。
道徳のできる教師養成を
それにしてもいつもトップダウンの改革で、混乱し苦労するのは常に現場の教師と子どもだ。「外国語」も然り、「総合的な学習の時間」も然り、そして「道徳」もまた然り。自分自身が受けてきたことのない授業は、教員養成課程できちんと教わらなければ教えることはできない。今道徳授業を行っている教師は、道徳の研究会で優れた授業に出会ったり、校内の先輩に手取り足取り教わったりして授業技術を身に付けてきたのだろう。教員養成大学で概論だけでなく、道徳の指導法も確実に学び、自信をもって子どもたちの前に立てる教師を養成したい。そしてすでに現場に立っている教師のためにも、研究修養の場を広く開いてほしいと考える。そこでは単なる授業の方法論に終始するのではなく、もう一度自分自身の「教育観」や「人生観」を見つめ直す機会としてほしい。
※1:教育zine Eduアンケート 2013/3/1〜4/30実施 コメント33件(3/27現在)
※2:教育zine Eduアンケート 2007/4/13〜5/11実施 コメント57件
※3:RPデイリサーチ 2013/2/20実施 28,868件
※4:押谷由夫「現在の道徳の時間の特質を生かした特別教科『道徳』を!」
「なんでいじめちゃいけないの?」と正面からぶつかる子なんていない。
そんな道徳の授業がどれだけの教育効果をもたらしているのだろうか。
道徳はどちらかというと体育のようなものだ。
道徳で「もし自分が主人公の立場だったらどうしますか」という問いは、
体育で「もし目の前に跳び箱があったらどのように跳びますか」という問いと同じくらい意味が無い。
道徳は、実際に膨大な時間を他人と過ごす中で、予期せぬ人間関係にもまれながら育つものだ。
道徳の授業時間を確保するのではなく、普通の教科の授業の中に道徳を涵養する要素を取り入れるべきではないか。
他のエントリに上がっている『学び合い』はそれを実現する一つの形のような気がする。