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今月のメッセージ
学校間競争の拡大による非効率化と学校の空洞化
常任委員 安島 文男
今、学校と教師が組み込まれようとしている競争にクリエイティブなものは感じとれない。
むしろ一元的能力主義における偏差値の獲得競争以上に排除と抑圧をつくり出し、孤立化をすすめるものとならざるを得ないのではないか。通学区域の弾力化、中高一貫教育、飛び級制の導入、そして成績率の導入による教師の賃金獲得競争は企業が強力にすすめている合理化・効率化・リストラと同質のものであり、教育の市場化のいっそうの具体化である。だからこの競争の結果として、学校の統廃合、教師の退職の強要が押しすすめられていくことは目に見えているし、すでに実施されている。
問題はこれらが競争のシステムの再活性化のための施策として位置づけられることにより、多様な教育選択コースの設置を正当化し、その設置のベースが経済階層にあることを隠蔽し、そしてそのことによる大量の子どもの切り捨てが当然視されていくことである。個性と多様化のもとに「平等主義」的教育制度は崩壊させられ、若年単純労働者を生み出す「公立学校」が創出されることになる。学校間競争の拡大による公教育の縮小である。
現在生じている「新しい荒れ」という子どもたちのトラブル・問題行動が社会的な矛盾の反映であり、制度的な問題だとしたら、それは「学習しない子どもたちの再生産」を政策として押しつけられた学校の空洞化・スラム化以外のなにものでもない。さらに荒れの一つの傾向としてトラブルが自分くずしとなりつつも、自分つくりの契機となりえず、トラブルを起こすほどに自我を溶解させていくような傾向は、現在の学習が未来を切り開くものとなりえず、可能性を閉ざすものに転化していることの現れであり、そのことを察知しはじめている子どもたちの危機的行為ということになるであろう。
教育を市場と見なす競争のシステムが構築されていくにつれ、学校が空洞化していくのは必然であろう。
その空洞化のあらわれは、学校に創造と自由を体現していくことで、子どもたちの夢と希望を紡ぎ、共に明日を切り開く存在である教師の変容としても顕著である。多くの教師は学習しない子どもたちの存在に、つかれ、あきらめ、無力感に支配されつつある。学校から撤退するか政策への批判的精神を放棄し、結果としてそれに従属することによって教育困難から逃れようとしている。かつてわたしたちの先輩の民主的な教師たちは「わかる授業・たのしい授業」を掲げ、授業内容を理解できない子どもの苦悩を自分自身の課題としてきた。さらにおちこぼし問題として主体的に受けとめ、その克服に懸命な努力を重ねる驚嘆したいほどのモラルの高さを示してくれた。それが今や崩れはじめ、勉強のできない子どもに苦痛を感じなくなってきているか感じないようつとめざるを得ない状況がつくられつつある。
こうした事態が深刻なのは、親自身のなかにもそのことを問うことをやめ、政策に同調しはじめている傾向が生まれていることである。我が子の低学力・学習放棄にあきらめ、無関心を装わないことには親子としてやっていけないところまで追い込まれている事態を反映してである。
これらを単純に新学力観による低学力政策としてすますわけにはいかない社会の大きな変化のひとつの現れであろうが、わたしたちに求められることは、この学校の、教育の危機の深化はこれまでの子ども観・学習観の転換を余儀なくさせつつ、危機を克服していく可能性をどのように胚胎してきているかということを見出していくことであろう。
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- 明治図書