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今月のメッセージ
中学校実践は暴力に対する方針の確立を
常任委員 安島 文男
「なんでもあり」とは、はじめ、子どものトラブル・問題行動のありとあらゆる行為があるすさまじい荒れの状況を指す、というようにとらえていた。
次に、モラリティの崩壊ということがいわれだした。荒れに直面し続けてきた私たちは、この現象について考え、分析しないことには何の方針ももてない状況にあった。
それをトラブルの変質として次のようにとらえてみた。「彼らのおこすトラブル・問題行動には一貫性がなく、分散的・拡散的であり、トラブルをおこすほどに自我を溶解・喪失させていくようである」「トラブルは思春期の特性として自分くずしとなっているのはわかるのだが、それが自分つくりの契機となっていかない困難に直面しているのではないか」「かつてのトラブルのように葛藤が見出せず不透明である。むしろ内的葛藤が消滅しているのではないかとさえ思える」
つまり、モラリティの崩壊ということは価値判断する自我を形成できない問題としてあるのではないか。しかし、「トラブルは自分くずしとなっているのか」という疑問もうまれてきた。むしろ「自分くずしとなっていない、自分くずしができるほどの自我を形成できていない、葛藤を身体化・行動化するほどの濃密な他者は存在しなくなってきている」と。それでないとはてしなく続くトラブルを解明できないし、そのなかで思考力・判断力を低下させ、モラリティまで失った「なんでもあり」の状況がつくりだされる構造が理解できない。
もう一つは、これと相反するとらえ方である。九〇年代後半からの衝撃的な少年事件が突き出してきた課題であった。少年事件はトラブルというより、犯罪であり殺人事件であるが、それでも少年であるという事実によって、問題を中学生にひきつけて考えざるをえないものであった。それは「彼らのつくりだしてきた関係性として支配と抑圧が私たちの想像以上に強固なものとしてあり、この関係性をくずすのに従来のトラブルのレベルでは不可能になってきているのではないか」ということである。「他者の存在を暴力的に否定し、抹殺しないことには、自分を呪縛しているものから解き放たれないのか、自分くずしとなりえないのか、そういう関係を今の子どもたちは生きているのか」というとらえ方である。
ここには、私たちのレベルでは統一できない子どものとらえ方があった。
絶え間なくトラブルをおこし続けて「なんでもあり」という状況に入っていく子どもと、自分くずしができないほどの絶望的な葛藤に囚われ、他者の否定・抹殺に走っていく子どもたちの存在とである。
「暴力」が今の荒れの主要な問題ではないのか、現代の子どもを支配している攻撃性・暴力性が「なんでもあり」の本質なのではないかと考えると、モラリティの崩壊というより、モラリティへの攻撃といった方が今日の子どもの「荒れ」を理解できる糸口となった。暴力こそモラル・人権の否定の最たるものだからである。
だから、暴力に対する方針を確立することこそ中学校実践のベースと考えている。しかし、それはストレートに暴力を根絶すればよいというものではないだろう。彼らの「暴力によってスポイルされた自我」「生育歴に刻まれた暴力性」をとらえていくとき、彼らの暴力はそういう自我をかたちづくってきた支配的な価値観とその秩序・関係性の破壊ということを意味してはいないか、という疑問があるからである。そして暴力的な自我を抱えた自分自身をも否定・抹殺しようとしている行為でもあるからである。
暴力とたたかうということは、それを意識化していく試みとなる。暴力を恐れ、暴力的な力に対しては無力な弱者であることをともに意識化していくことによって、暴力に立ち向かう実践となる。
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- 明治図書