最近のマスコミは、教育問題を学力問題にしている。新聞やテレビの報道を見ていると、学校教育の問題は学力問題であるかのように感じられる。学力問題が非常に大きな教育問題として全面的に取り上げられているような現状だ。
全国学力調査が実施されるようになってから、日本中が、学力問題を教育問題の全てであるかのように思っている。全国の知事や市長は、全国学力調査を取り上げて、自分のところの県や市はどういう順位なのかを気にし、学力向上を成し遂げることを教育政策の最優先事項に掲げている。しかし、そういう風潮は、子どもたちにとっても日本の社会にとっても不幸であるばかりか、教育の死を招きかねないものだと私は思う。私は学力問題だけが教育問題化している日本の現状に異議を申し立てたい。
学校制度と教育
私たちは、教育というと学校の中でだけ行なわれるものだと思いがちだ。教育=学校という認識が私たちにはついて回る。しかし教育は、学校だけが担うものではない。教育は、他律的な存在である人間を自律的な存在に促す行為だ。学校以外でも十分成り立つ行為なのだ。いや、近代社会以前の社会では、学校なんてものは存在しなかった(近代以前の大学と言われるものは、宗教的な機関であり、今で言う学校とは違う)。家庭や地域社会が、一手に子どもの教育を担っていたのだ。
近代になって、国家行政の必要から制度としての学校が登場する。そして、家庭や地域社会から教育力を奪って、一手に教育行為を学校が担うことになってしまうのだ。そうして登場した学校の本質は、管理と選抜の機能を担ったものなのだ。学力という一元的な指標を使って、管理をし、子どもたちを選抜して、上位学校へと階梯を上らせて、最終的には、エリートを創っていくものだ。2002年の教育改革は、ゆとり教育を主導することによって、逆に学力低下問題を世間に認知させて、一挙に学力偏重に対する世間のアレルギーを解消させ、昨今の日本の教育的な状況を用意したのだ。そこから教育問題は学力問題へと矮小化したのだ。
しかし、教育は、学力をつけるために行なうものではない。生きる姿勢を子どもたちに知ってもらい身につけてもらうために行なうものである。そして、一人前の大人になって、社会に参加していくことを促すために行なうものだ。
学校教育もまた、学力を身につけるために、行なうものではない。学力をつけることを目的とするのではない。教科を学習することを通して、何かをどう学ぶか=学び方を学ぶために、また生きる姿勢を学ぶために、行なうものだ。子どもたちが目の前にある自分の課題に真摯に誠実に対応していくことを、教育は、求めていくものだ。その結果、学力が身についていくものなのだ。私たちは、昨今の教育風潮に惑わされることなく、子どもたちに向き合っていきたいものだ。学力を付けるためではなく、子どもたちに公共性と主体性をつけるために。
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- 名無しさん
- 2011/7/8 17:36:19
「教育は、学力をつけるためではなく、生きる姿勢を子どもたちに身につけてもらうために行なうもので、一人前の大人になって、社会に参加していくことを促すために行なうものだ。」ということが教育の目的であると明確化している点に強く共感を覚えました。 -
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- 名無しさん
- 2011/7/9 10:36:16
今教育に求められているものは、人間が子どもを育てるという基本的なことではないでしょうか。学力だけにシフトしているような教育に、未来はないように思います。 -
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- 名無しさん
- 2011/7/12 10:50:50
よく生きる力と言うけれど、生きる姿勢を身につけるといったほうが分かりやすいように思う。教育とは子どもたちにまずはそういう生きる姿勢を教えるものだと思います。