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民間出身の校長先生の授業を見る目
今から数年前、まだ新潟の公立小学校に勤務していた頃のことである。翌年から新潟市の公立校の校長先生になる民間人の方が、私のクラス(小学校6年生)の算数授業を参観にいらっしゃった。10年程前から、全国的に民間出身の校長先生が誕生しているが、それらの学校の評判は、一部を除きあまりよくないようだった(そのため、この訪問には大きな期待はしていなかった)。
私は、円柱の側面にかかれた線の長さを考えさせる授業を公開した。授業開始早々、指導案通りには進まない展開となってしまった。しかし、想定以上の発想が子どもから生まれてきた。また、価値ある子どもの呟きを取り上げて授業を構成してくことで、最後にはねらいに到達することができた。
授業が終わった後、校長室で30分ほどその校長先生と対談をする時間があった。正直なところ、「民間人の方が授業を見て何が分かるのだろう」という思いで校長室のドアを開けた。
校長室での対談の中で、その校長先生から次のような言葉をいただいた。
「すごい授業でしたね。子どもがどんどん意見を言っていましたね。私の子どもの頃は、先生が問題を出すと子どもはシーンとして問題を解いていましたよ。自由に意見を言うなんてことはあり得ませんでした。本当にびっくりしました」
それに対し、私は次のように言った。
「同じような授業を中学校の先生が参観すると、『小学校の子どもたちは私語が多いですね』と言うのですよ。呟きを私語と捉えるのです」
校長先生は、すぐさま次のように答えた。
「いや、それは間違っていますね。今日の子どもたちの話は私語ではありませんよ。どの子も、黒板に向かって自分の考えを発表していました。どの言葉も、算数の授業として意味のある言葉でしたよ」
さらにその後、私がねらっていた授業の目的のおもしろさ、教師の発問や子どもの考えの取り上げ方などについても、的確な質問や意見をいただいた。
校長室での30分ほどのやりとりを通して、授業を見る目があるなあと感心し、私の民間人校長に対する見方が大きく変わった。
形式的な授業になっていないか
一方、「先生」という立派な肩書きは付いているのに、何も見えていない人もいる。私が先日参観したある中学校で、数学の「確率」の授業を公開していた。問題の書かれたプリントを配付すると、あとは子どもたちがのんびりと過ごしていた。プリントに書かれた内容を近くの子どもと話し合う姿もあれば、全く関係のないことを話している姿もあった。先生は何をしているのかと思えば、教卓の近くの子どもと楽しそうに話をしていた(あれはもしかすると個別指導だったのであろうか…?)。
これで授業を進めている気でいるのだろうかと疑問に思った。もしかしたら、これが中学校数学の展開のスタンダードなのだろうか…。
学習指導要領が改訂されて数年が経つ。「思考力・判断力・表現力」「言語活動」などのキーワードが、多くの学校の校内研修で取り上げられている。これらのテーマを掲げた学校の100学級近い授業をこの数年で参観した。
その結果言えるのは、学習指導要領改訂の成果はまだ十分に具現されているとは言い難いということである。その原因の1つは、思考力や言語活動を意識するあまり、形式的に授業を進めようとする点にある。例えば、子どもが自分の思いを「書きたい」と思っていないのに、無理矢理書く場面を設定する授業があった。このように形式にこだわりすぎることで、子どもがせっかく価値ある呟きをしても、それらの声が教師には聞こえなくなっていくのである。
その結果、授業の展開とともに、子どもたちはしだいに静かになっていく。これでは、前述の中学数学の授業と大差ないのではないか…。
教師にとって授業を進める上で大切なことは何であろうか? それは、価値ある子どもの声や姿・考え方は何かを瞬時に見抜く目をもつことである。さらには、それらの価値ある声や姿などを授業の舞台に載せ、クラス全体で共有・発展させていくことである。このような授業過程を繰り返していくことで、思考力や表現力が一人一人の子どもに着実に育っていくのである。
われわれ現場の教師は、子どもを見る目・授業を見る目を今まで以上に鍛えることが必要である。そして、その確かな目をもつ授業者を、もっともっと増やすことも必要だと言える。教師の目が鍛えられなければ、学習指導要領が変わっても授業は何も変わらない。