生活指導 2002年1月号
いま求められる教師の“同僚性”

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生活指導 2002年1月号いま求められる教師の“同僚性”

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ジャンル:
生活・生徒・進路指導
刊行:
2001年12月
対象:
小・中
仕様:
A5判 124頁
状態:
絶版
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目次

もくじの詳細表示

特集 いま求められる教師の“同僚性”
特集の解説
井本 傳枝
実践記録 いま求められる教師の“同僚性”
子どもたちのために悩みを共有できる学校をめざして
勝野 一教
輝く卒業をめざして
大広 集治
仲間の笑顔を求めて―仲間を助けるって―
木下 住男
遅々とした生研サークル学習の歩みの中で学んだこと
日高 享
実践記録のコメント
職場の同僚性をどうつくるか―勝野、大広、木下、日高氏の実践を読んで―
高橋 廉
コメントを受けて
相談活動で風穴をあけるために必要なことは
勝野 一教
互いに尊重しあうことが同僚性を高める第一歩!
大広 集治
仲間としてどう関わってきたのか
木下 住男
「先生たちが協力し合おう」
日高 享
新自由主義に抗する「同僚性」の構築へ
現場に「尊重」と「尊敬」に満ちた「民主主義」の創出を
赤羽 潔
第2特集 教育課程づくりをどうすすめるか
子どもたちの瞳が輝く学校に
江幡 誠一
不安の「痛み」より、物語のおもしろさで
伊藤 弥
教育課程づくりは学校づくり
川辺 一弘
日常的に実践を積み上げる
釋 鋼二
今月のメッセージ
教師の同僚性に思う
北嶋 節子
教育情報
「暴力の文化」と「平和の文化」
山本 敏郎
書評
『みんなで跳んだ―城北中学二年一組の記録』
坂本 光男
読書案内
新教育課程の編成にあたって
西内 裕一
読者の声
11月号を読んで
案内板 集会・学習会のお知らせ
集団づくり―わたし流メソッド (第10回)
小学校/豊かな少年期を創りだす
齋藤 修
中学校/学校づくりを視野に入れて
村越 規雄
同時代を生きる教師たち (第2回)
組合活動型教師と教育研究型教師の統一(2)
大森 弘志
ほっとたいむ サークルからの発信
山あり谷あり、それでも一歩前へ
田中 一美
コメント
小林 正洋
投稿 実践記録
続「がんばらなくちゃいけない子どもたち」とともに
良出 愛
【コメント】暴力をこえて信頼の世界を築くには
後藤 義昭
少人数教育に関する見解
全生研常任委員会
編集後記
井本 傳枝

今月のメッセージ

教師の同僚性に思う

常任委員 北 嶋 節 子 


 数年前のことである。わたしたちの学校で異学年交流の実践が広がり、それを軸に全校活動をすすめてきて四年目に、新任のA先生が、多動傾向のあったS子を指導しきれなくなり、S子の言動に振りまわされることによって、A先生の学級の授業自体も、成立しずらくなってしまったことがあった。学校としても、T・T方式をとったり、管理職が、ことあるごとにS子の話し相手になったり、最後には専科のK先生がつきっきりで援助に入ったりしたが、なかなか効果が上がらず、A先生は窮地に追いこまれてしまっていた。そして試行錯誤がくり返されていくうちに、学級が騒然となってきたことをかぎつけた父母たちが、しだいに「学校側の対応はどうなっているのか」と、校長に抗議を申し入れようとしはじめていた。

 以前より、学級は狭い、学級王国的な発想をやめ、全校に開かれたものにしていくべきであるという考えが、わたしの学校では主流になっていた。だから、ADHD傾向のある子、不登校の子、多動的な子、傷害がある子などについては、毎回の職員会議で必ず時間をとって、各学年から経過を報告しあい、担任や当該学年だけに全責任を課すのではなく、全職員が一致してできる指導をさぐろうという基本線を大切にしていたのである。またそうした学級の中で、影のある子たちも、さまざまな教科の中でくり広げられる交流活動の中では、また別の一面を見せ、生き生きとふるまう姿も見られていた。

 しかし、日々の授業のゆき詰まりにはそれだけでは解決しえないことであった。そこでA先生の学年集団(O先生五〇代男・Y先生四〇代男・M先生五〇代女、それに専科のK先生四〇代女)は、迷わず教科担任制を主張した。そしてそのために起こりうる問題、特別教室配当の変更、専科の先生の時間の変更等について、他学年の協力を呼びかけたのである。毎日のように父母からのつき上げや苦情の処理で泣き暮らしているA先生を助けたいという思いよりも、どの子も全校の全職員で指導にあたるのだという強い決意を具体的な形で示そうという同意がわたしたちにあったからである。

 図工K先生、社会O先生、体育Y先生、音楽M先生、理科A先生とし、国語と算数は担任が行なうという体制をとった。この方法はA先生の学級のみならず、他の学級の父母にも前向きにうけとめられた。より多くの教師の指導を直接に受けられるということは、子どもたちにプラスになるという面が一番支持された。それぞれが教科の得意部門を担当したことで、より専門的な指導を受けられるであろうとする期待があったからである。実際には、どの学級も同じ内容で授業を行なうために、授業準備も確実に行なわれるようになり、子どもたちも新鮮な気持ちでこの「学年教科担任制」を受け入れた。学年教師集団は、慣れるまでは緊張の連続(体育のY先生は寒風の中、一日二〜三時間は体育を担当しなければならず)であったが、日に日に効果はあらわれてきて、三学期にはどの学級も落ち着き、どの学級も、どの先生が来ても授業できるように変わっていった。S子も静かな教室に帰れるようになり、顔にも明るさが戻ってきていた。

          *

 今、全国のどの学級にもこうした傾向のある子を多かれ少なかれ抱えている現状がある。それらが学級崩壊の原因の一つとなったり、「不適格教員」をつくる行政側のネックにもなっている。自身の指導力量を超える子が出現してきても、わたしたちは「指導不足」を嘆くことはやめようではないか。どんな子どもでも、子どもは地球の未来の財産である。わたしたちは学級の子どもたちを全校に開き(地域にも開きつつ)、一教師の自己責任に転化させない教師集団の指導を、学校の中につくり出していきたいものである。

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