「障害の社会モデル」の考え方は、2006 年に国連総会において採択された「障害者の権利に関する条約」に示されているもので、日本でもこれを2014 年に批准しています。星加良司先生に、この考え方の背景と、そうした考え方に立ったときのインクルーシブ教育の意義を解説してもらいます。
皆さんは「障害の社会モデル」という言葉を見聞きしたことがあるでしょうか?
これはもともと障害学という学問分野で提唱された考え方で、今日では国内外の障害関連の政策や法制度にも導入された、障害についての基礎的な理解なのですが、実は意外なほどその正確な意味は知られていません。たとえば、「障害者の問題に社会として取り組んでいこう」というスローガン程度のものとして、この言葉を理解している人が多いのですが、こうした理解では「社会モデル」の本質はほとんど捉えられていないのです。
「社会モデル」とは、端的にいえば、障害者が困難を経験しているのは、周りの環境や制度、ルールなどが障害のない人(多数派)の都合に合わせて作られてしまっているためだ、と考える障害についての理解です。これを踏まえれば、社会の多数派にとって便利で快適だと考えられてきた環境そのものが、障害者(少数派)にとっての困難の原因なのであり、そのような意味での「社会的障壁」(障害がある者にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの)(障害者基本法/障害者差別解消法)を取り除いていくことが求められるのです。
社会的障壁としての学校
では、学校教育において取り除かれるべき社会的障壁とは何でしょうか? 先の「社会モデル」の考え方を踏まえれば、それは通常の学校のあり方そのものだということになります。
そもそも「障害児教育」という営みは、産業化された近代社会が「良質な」労働力とその担い手となる「国民」を必要とする過程において、通常の働きかけによっては効果が期待できない人々を分離し(教育可能性による線引き)、そうした人々への特別な働きかけの可能性を探求したことから生まれました。そのようにして、特殊学校(特別支援学校)という場が設定され、そこに「障害があることにより、通常の学級における指導だけではその能力を十分に伸ばすことが困難な子どもたち」(文部科学省「特別支援教育について」)が措置されていったわけです。
このことを裏返していえば、通常の学校とは、障害児を特別な枠組みにくくり出すことを前提とした上で、障害のない子どもたちに対する「効率的」な教育を可能にする場として組み立てられたシステムだということになります。このように考えると、これまであたりまえとされてきた教材や教授法、校内のルールや文化、教師と子どもの関係性など、通常の学校教育を形作るありとあらゆる要素が、障害児を排除する社会的障壁として機能しうるものだということが見えてきます。だとすれば、「社会モデル」に基づく教育実践の方向性は、必然的に、通常の学校教育のあり方の根源的な見直しへと向かうことになるはずです。
大空小学校の挑戦
通常の学校のあり方そのものが社会的障壁になりうると考えるなら、インクルーシブ教育をめぐる第一義的な課題は、通常の学校に潜む排除的(エクスクルーシブ)な要素に気づき、それらを変えていく取り組みを進めることだということになります。
大空小学校では、「すべての子どもの学習権を保障する」という理念を掲げ、「すべての子どもが安心できる居場所をつくる」ことを追求しています。このように、「すべての子ども」を対象とすることに本気で向き合うことによって初めて、それを難しくしている社会的障壁の存在に気づくこともできるのだと思います。その意味で、大空小学校の実践には、たくさんのヒントが含まれているはずです。
まとめ
- 障害の社会モデルは、私たちがあたりまえだと考えてきた社会の成り立ちの問い直しを迫るものです。(学校)教育がそれにどのように応えようとするのか、その本気度が問われています。
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読めた!書けた!1年生の<教科書の漢字>学び支援!
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「わくわく」「うきうき」が「できた!」につながるプリント集
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どの子もできた!につながる教材のユニバーサルデザイン!
感動しました。
素晴らしい実践、忍耐強く深い愛情と審念熟慮をもった先生方の姿には、
学ぶものが多くあります!
一見の価値、大いにあり!!
全国学力テストでは、平均点を下げそうな児童を別室に隔離し、受験させなかった。その結果、「大空小学校は全国学力テストの点数も高い」と自慢げに主張。別室隔離についてはダンマリ。
その一方で、運動会のリレーでは「世界で一番難しいリレー」などともったいつけて、全員参加を押し付ける。
全国学力テストでは「お涙ちょうだい物語」が作れないとみて、別室隔離。
リレーでは「お涙ちょうだい物語が作れる」と判断し、無理やり参加押し付け。
児童を「木村泰子自己満足」のためのツールにやり放題。
結局、この文章からはただ一緒にいるだけの「形だけのインクルーシブ教育」としか感じられません。
明治図書さんには、この連載の再考を要請します。
それでは、障害のある子どもたちの学びにならないでしょう。
東大は本当にそれでいいのですか・
大阪市教育委員会は大空小学校みたいな学校でいいと、本当に考えているのでしょうか。支援学級配置がないのに、支援学級担任を配属されるのはどういうことでしょうか。
それこそ排除なのでは。
東大も、明治図書さんも、考え直した方がいいですよ。