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道徳科がスタートし、多くの中学校では「道徳学習評価」に不安を抱えています。「子供をラベリングするのか」「学びのよいところを見取ると言っても、どうやって記録していけばよいのか」等々、担任ならではの不安や悩みも多いようです。こう考えてみてください。道徳科は子供の人間としての生き方のよさを認め励ます「心根育て」です。どう評価したら子供を育てられるのか、どう個を見つめたらそんなことができるのか、もう担任としての答えは見えているのではないでしょうか。
多くの教師か混乱しているのが、「通知表」と「指導要録」の区別についてです。指導要録は法的根拠をもった公簿です。ですから、そこへの記入は文部科学省からの通知にも記されているように、道徳科での学びを通して成長した子供の姿や学びに向かう姿勢や変容等について顕著な部分を大くくりに記せばよいのです。それに対し、通知表は眼前の子供の日々の努力や成長を認め励まし、さらなる高みへ向かって伸びようとする思いを育むことです。ならば、具体的に記さなくても伝わるのでしょうか? 受け取った子供がその時の場面を想起できないような曖昧な記述でよいのでしょうか? この点も、自ずと答えは見えてくると思います。
「具体的にこうだから」といったことは、本書をご覧いただければ一目瞭然でおわかりになると思います。つまり、教師として目の前の子供をどう見取ろうとしているのか、教師として道徳科授業を通してどのような子供に育ってほしいと願っているのか、その点さえぶれなければ肯定的な個人内評価をされた子供も保護者も納得し、教師を信頼してくれるに違いありません。
いわば、紋切り型の「これはNG」とライン策定することではなく、教師として子供を見取る目がNGなのか否かという、教師としての生き方の姿勢を記述評価で問われているのです。
子供の学習状況や成長の様子を見取るということは、教師の技量が秤にのせられているようなものだとご理解ください。子供たちの道徳的なものの見方・感じ方・考え方というのは挙手や発言回数、ノート等に記した文章量に全て表れるものではありません。ですから、傍目に見える子供のパフォーマンスを定量的に捉えてしまうと皮相的な学習状況評価となってしまいます。むしろ大切なのは、ある場面では友達の考えにしっかり耳を傾け、ある場面では鉛筆こそ止まっているもののじっくりと考え込んでいる等々、個別な定性的な学習パフォーマンスに留意していくべきです。つまり、教師である自身の子供を見取る感性、技量を信頼して取り組むことが何よりも大切なのです。
大人であれ、子供であれ、人間は誰しも自らの人生をより善く生きたいと願う存在です。ですから子供が自分見つめる、自分を見つめた先にある道徳的価値に気づく、道徳的価値を通してこれからの自分を見つめることで明日の在り方や生き方を思い描ける、そんな学習をする道徳科がとても重要なのです。そんな「伸びよう」「明日はもっと善くなろう」の願う子供の素朴で素直な心根に寄り添えば、必然的に肯定的な個人内評価にならざるを得ないのです。ですから、道徳学習評価はテクニカルな評価技法を前提にするものではありません。子供の成長に寄り添って自らも人間として成長したいと願う自然な教師の思いの発露こそ、裏返せば道徳学習評価を充足する必須要件であるということです。