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定期的に指導を受けている子どもよりも、むしろ指導を受けずに自由な遊びをしている子どもたちの方が、ある能力について高い結果が出ているとの話題が最近報じられた。この場合の能力とは、子どもたちの運動に関する側面である。東京学芸大学の杉原隆名誉教授の研究グループによると、小学校3年生くらいまでは遊びながらさまざまな動きを経験させることが、運動能力を伸ばすことにつながるとのことである(5月15日 NHK生活情報ブログ)。
子どもたちのために良かれと思い、早くから系統立てられたトレーニングを施すことは、必ずしも最善の結果へと結びつかないということである。同じような話は、かつて拝読した小野剛『世界に通用するプレーヤー育成のためのクリエイティブサッカー・コーチング』(大修館書店、1998年)でも述べられている。
本書によると、生まれたばかりの赤ん坊の未熟な脳は、部品としての神経細胞は出そろっているもののまだ配線された状態ではなく、10歳頃までの間に多種多様な刺激によってその配線を増やし、複雑な回路を形成していくとして、幼児期から小学校低学年までの年代の子どもには、反復練習によって1つの技術の完成を目指すより、おおざっぱでも多様な運動経験を積ませた方がよいと指摘されている。さらに、よくこの年代の子どもは集中力がないと言われるが、それはこの年代の子どもの欠点ではなく、将来の成長のために生まれつき備わっている機能と考えられて、「無駄な動き」や「寄り道」によって子どもはいろいろな運動を同時に経験し、さまざまな神経回路を形成していくことができるのだという。
社会科と生活科を専門としていながら、個人的な趣味でたまたま拝読した本書で、上記のようなことを教えられた。以後、特に生活科で大事にすべきことともリンクする内容であることから、講義や講演でも、しばしば引用させていただいている。このたび、同様な内容に関する実証的な成果が報道されて、素人ながらもスポーツや運動の最新の研究に改めて注目しているところである。
ところで、小学校から始まる旧来型の教科学習なども起因とされる小1プロブレムに関連して、生活科にはスタートカリキュラムとしての大きな役割が期待されている。国家が求める能力の形成を意図的・系統的・計画的に実施するための旧来型の教科のあり方は、現在の体制下では必要不可欠な存在ではあるものの、果たして子どもたちに最善の結果をもたらしているのだろうか。教科による人工的な学習は学校教育において欠かせない枠組みではあるが、一方で「子どもたちの本能的な学び」を奪いすぎてしまう存在であってはならない。
この点は、幼少期の運動能力に限らず、初等中等教育の全般において、いま再び留意が求められる観点となっている。小学校3年から高等学校にまで設けられている総合的な学習の時間で特に期待されている「探究」は、人工的な学習が支配的となってしまった学校教育の中で、「子どもたちの本能的な学び」を再生もしくは覚醒させる可能性を秘めている。
「探究」は、学校教育の中では必ずしも新しい考え方ではない。以前から社会科や理科で主張されてきた視点でもある。このたび、「探究」が教科とは異なる総合的な学習の時間で、特に重視されることとなった点が注目される。いま、子どもたちの教育活動は、学校での教科学習が中心であることは常識である。しかしながら、このような状態は我が国においては、つい150年ほど前までは必ずしも当たり前のことではなかった。日本で教科学習が始められた当時は、それまでの学びの常識と異なる環境や状況に、学校への焼き討ちまで発生した事実も確認されている。それまでの多くの人々にとっての学びとは、日常生活の中での数々の困難や問題を解決しながら生活していく、その営みの中で経験的に蓄積されていくものであった。
戦後に刷新された学校教育制度の下で誕生した社会科も、民主主義社会の構築を標榜して、そもそもは青少年の現実の生活の問題を中心に社会的経験を広め深めていくことを期待された新教科であった。そこでの学習は当初は、問題解決学習という名の子どもたちによる「探究」が主眼とされていたが、ご案内のように、社会科は時をかさねるごとに次第に変質しながら(させられながら)、現在に至っている。
教育の歴史の中で、消えては再び注目される「探究」は、失われすぎては改めて再生が求められる「子どもたちの本能的な学び」と常に相関し続ける存在でもある。いま子どもたちや先生方から低い評価を受けている社会科が消失せずに、再び魅力ある教科として復権するための鍵も、このあたりにあるのかもしれない。