教育オピニオン
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国際化社会を生き抜くための「対話力」の育成を
広島女学院大学国際教養学部准教授植西 浩一
2012/8/21 掲載

1 今求められる「対話力」

 街中でも、大学のキャンパスの中でも、外国人の姿を普通に見かけるようになった。様々な文化的土壌のもとで育った人々が行き交い、多様な価値観が交錯している。日本社会の国際化は急激に進んでいる。
 私たちの生きる社会は、もはや「以心伝心」的コミュニケーションが通じる社会ではない。相互理解を図り、合意形成を得るためには、文化的背景や価値観の異なる他者と言葉を尽くして意見を交わさなくてはならなくなった。時には激しいやりとりを経ることも必要となる。火花の散るような言葉の応酬の中でも、冷静さを失わず、自らの考えをきちんと表明するとともに、心を開いて相手の考えに耳を傾ける力、そのような力を学習者に培うことが、今、国語科教育を核とした学校教育に求められている。そのような力を、「対話力」と呼びたい。

2 「対話」の概念規定

 「対話力」育成の必要性を訴えるにあたり、ここでいう「対話」の概念規定を明確にしておきたい。
 西尾実は、「対話」を次のように規定している。

 対話はひとりとひとりが相対で行う話しあいで、話の進むのにつれて話し手が聞き手となり、聞き手が話し手となる、談話のいちばん基本的な形である。(『国語教育辞典』西尾実 倉沢栄吉 滑川道夫 飛田多喜雄 増淵恒吉編 1956 朝倉書店)

 この西尾による概念規定が、国語科教育の世界では、今日まで広く用いられてきたと言ってよい。『音声言語指導大事典』(高橋俊三編 1999 明治図書)も、まず「二人の人が向かいあって話をすること。またその話」(成田信子執筆)と定義づけている。
 このような「対話」の概念規定に対して、大内善一は、「対話」を「単に形の上で向かい合うというより、もっと全人格的に内面的に向かい合うという意義に解すべきである」と述べ、「対話」は「哲学的な概念を含んだ用語」であることを指摘し、「複数の人間の間でも行われうる価値観の交流までを含んだ幅広い概念を有している」と言う。(「国語科教育実践用語の用法をめぐる問題−『対話』ブームの中で考えさせられること−」『教育実践学研究』第12号 2008 教育実践学会)
 重要な指摘であり、「対話」という用語は、現代の一般的使用のあり方を考えても、この大内の見解をふまえ、単なる話し合いの形態としてではなく、人と人との向き合い方にも関わる言葉としてとらえるべきであろう。西尾以来の一対一という限定にもとらわれないものとしたい。
 大内の見解に通じる「対話」のとらえ方に、多田孝志の対話観がある。多田は、「対話」をこれからの時代を生きるために不可欠なコミュニケーションのあり方として提起しており、その対話論は示唆に富む。多田は、「対話」を次のように規定している。

 話し合いの一形態ということでなく、より広い概念でとらえ、多様な他者とかかわり合い、新たな知恵や価値、解決策などを共に創り、その過程で良好で創造的な関係を構築していくための言語・非言語による表現活動(『共に創る対話力−グローバル時代の対話指導の考え方と方法−』2009 教育出版)

 筆者は、両氏の見解に学び、「対話」を次のように定義づけている。

 人と人とが向き合い、互いに言葉を尽くしながら、価値観やものの見方・考え方を乗り越えて、相互理解を深め、関係を編み直し、新たな知を創出する言語活動。

 私たちを取り巻く社会状況の中では、まさにこのような「対話」が求められており、「対話力」の育成が急務である。国語科教育においても、ひいては学校教育全般にわたる取り組みにおいても、「対話力」の育成を意識した実践が行われる必要がある。

3 学習指導要領が提起する「伝え合う力」と「対話力」

 周知のように、小学校・中学校・高等学校とも国語科学習指導要領の教科目標には、前回の改訂より「伝え合う力」の育成が掲げられ、今回改訂されたものでもこれが継承さている。ここでは、中学校の教科目標を示しておく。

 国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし、国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。

 「伝え合う力」は、まさに国語科学習指導要領のキーワードともいうべきものである。「伝える力」ではなく「伝え合う力」とした点に、コミュニケーションの双方向性を重視したことがうかがえる。「伝え合う力を高める」ことが、学習指導要領に謳われていることの意義は大きい。「伝え合う力」という文言は教育現場にも浸透し、音声言語教育や作文教育の実践の改善に寄与してきたのも確かであろう。
 しかし、「伝え合う力」という言葉の意味するものは、「対話力」の意味するものと異なる。
 「伝え合う」には、双方向性はあるものの、内面的な交流という意味は、字義から考えても希薄である。「全人格的に内面的に向かい合う」という意味は読み取りにくい。どうしても表層的なやりとりをさすように思えるのである。また感性的なコミュニケーショよりは、論理的なコミュニケーションを指すことに偏りがちな言葉であるのも気にかかる。
 また、ミハイル・バフチンは、「コミュニケーション」を「正と負の両極をつなぎあわせた時にのみ出る電気火花」にたとえている(ミハイル・バフチン『言語と文化の記号論』北岡誠司訳『ミハイル・バフチン著作集四』1980 新時代社所収)が、「伝え合う」という語には、このような激しさはない。
 国語科の教科目標としては、国際化とそれに伴う価値観の多様化が進む時代状況を考ると、「伝え合う力を高める」では、弱いのではないか。コミュニケーションが容易に成立しにくい現代社会の中で、相手と正面から向き合い、心を開き合い、時には「電気火花が散るような激しいやりとりを経ながらも、相互理解や合意形成を導く力、「対話力」が求められているのではないか。国際化と言えば、外国語教育の必要性ばかりが強調されがちだが、まず基盤としての日本語での「対話力」を育てていくことが不可欠であろう。行政も教育現場も、このことをふまえた取り組みを進めていく必要がある。
 これが私の主張である。

植西 浩一うえにし こういち

広島女学院大学国際教養学部准教授

奈良県生駒市立生駒北中学校教諭、奈良教育大学附属中学校教諭、奈良教育大学教職大学院講師(併任)を経て、現職。
【主な著書】『中学校新国語科の展開1 活用型の国語科授業づくり 中学校編』(2009年7月)、『中学校新国語科の展開2 楽しくなる国語の授業づくり』(2011年11月)がある(いずれも明治図書) 。

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