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3つの礼
最近、各地を巡ると「将棋を正課に」という声を多く聞きます。
将棋には「3つの礼」があります。
まず対局前の「お願いします」の礼。そして、次に発する言葉は何でしょうか?
将棋は指し始めてから最初に言う「お願いします」の挨拶から無言の指し手を繋げて行く作業です。たとえて言うなら、相手の人と2人で作る絵=芸術という見方もできます。お互いの思考が交錯しながら終局を迎えます。そしてその終局の合図は敗者が自ら負けを宣言する「負けました」という言葉なのです。
「負けました」と相手に自分の負けを宣言することで終わる競技はそう多くありません。勝者が雄叫びを上げる競技、スポーツは数多くあります。最近は相撲でもガッツポーズがでるなどその本質が揺れ動いています。将棋は自分で負けを認めて、相手に宣言する勇気が自然に養われます。悔しい気持ちを心の中に押さえ、そこから再出発する感想戦(=対局者同士が検討する)が行われます。これも将棋のもつすばらしさだと思います。今までの思考をお互いに公開して、検討するこの美学こそ、自分だけよければいい…という最近の風潮に、気づかされます。
めんどうくさい作業
昨年、第7回文部科学大臣杯小・中学校将棋団体戦に初参加させてもらいました。5年生2名、3年生1名の即席チームでしたが、子どもたちが真剣に考える姿勢に改めてその教育的意義を再確認させてもらいました。将棋というのは、人と人とが対峙し、盤面をはさんで思考の対話をするゲームです。そもそもそうやって無言で盤に向き合い、じっと考えるという経験をする機会は、現代社会にあってはそう多くはありません。
むしろ、考え続けることは今では恥ずかしいこととされる風潮すらあるように思います。早く解答を得ることだけに訓練を重ねていく社会。そして、それに秀でた子どもを優秀だとしてきた教育の世界…。現場の教師として日々子どもたちに接していると、子どもたちの言葉の端々に、私たち大人が発している「めんどうくさい」という意識を感じるときがあります。
考える実体験
しかし、将棋はそうした「めんどうくさい」ことの対極の世界にあります。将棋を指すとき、「読み」という「めんどうくさい」ことをあえてする。将棋を通して「考える」ことを自然に実体験することができるのです。その効用には、目をみはるものがあります。そのため、将棋を始めたばかりの子どもの保護者の方から、「子どもが将棋に熱中しています!」と嬉しい驚きに満ちた声で報告をいただくことがよくあります。
子どもたちが互いに盤を前にして真剣に考えている姿を親が見る。子どもが考えた末に自分自身の責任で一手を指し、自分だけの力で前に進んでいる姿に「すごい!」と親が気づく。まさに親自身が「この子、こんなに集中できるのだ」と驚きの発見をし、同時に「考える」ことの大切さを痛感するのです。
「負けました」という勇気
教育関係者の視点からみても、この文部科学大臣杯はとても大きな意義をもっています。ただ、勝ち負けだけを争うことではなく、団体戦で行う「負けました」の精神の大切さを味わうことが現代の教育には必要だと思うからです。まさに子どもたちの眼が変わる、負けたあとの姿勢に変化が現れるということです。
上記の暁星小学校の子どもたちの戦果はどうだったかというと、なんと初参加ながら東京都代表の座を得て、東日本大会に進むことができました。子どもたちのあの時のうれしそうな笑顔、そして次の大会に向けての日々の過ごし方などにも充実したものが見えました。しかし、その効果はその後にあったのです…。東日本大会では、1回戦は勝ち、次の対戦では3人とも優勢に進めながら、終盤で6年生3人チームに逆転負けの1-2での惜敗…。あの後の3人の涙は今でも私の脳裏に残っています。
この「負けました」という勇気こそ、この大会の意義だと確信しています。
日本人の忘れ物
将棋は負けた後に感想戦が行われます。これは2人で行う反省会です。ここでこの手が敗因だったと検討をするのです。時には周りの観ている人も加わって最善手を模索します。これも将棋のもつ教育的意義と言えるでしょう。感想戦が終わると駒を数えながら駒箱にしまいます。そして「ありがとうございました」の礼。「お願いします」「負けました」「ありがとうございました」の3つの礼こそ今の日本人が以前はあったのに失ってしまった「日本人の忘れ物」かもしれません。
今その子どもたちは、次に向けて日々の学業、そして将棋の練習に励んでいます。全ての子どもたちがしっかりと「負けました」がいえる子に、そしてそこから「もう一度頑張る勇気」をと願っています。