- 特集 特別支援教育で学校は変わるか
- 提言・特別支援教育で学校は変わるか
- 子どもにも教師にもやさしい特別支援教育をめざせ
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- 学校の「体力」を高める「実践の枠組み」
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- 特別支援教育からすべてが変わる
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- 対応行動が意識を変える
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- 「教室で気になる子」は「きっかけになる子」
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- LD/ADHD児への対策―学校の実情はこうだ
- 学校が早急にすべきことはコーディネーターの指名
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- 子供を語る機会が増えた!次は授業を変えよう!
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- 学校としての支援体制ができても
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- 「緊急校内支援体制」作りから見えてきたもの
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- 協力的な雰囲気から組織的に行う支援体制づくりへ
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- 対応力が不足している教師が多くいる
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- 認識と方向性が十分ではない
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- 特別支援教育を視野に入れた学校経営とは
- 子どもから学べる教師集団を目指して
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- 校内対策委員会、システムづくり、医教連携
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- 組織を作り機能させる
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- 特別支援教育は、すべての子どもの幸せになる
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- 児童生徒の理解ができること
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- 特別支援教育で保護者との連携をどう図るか
- 学校で指導した日常のスキルを家庭で定着させるには
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- 発達検査を元に、保護者にも分かる個別支援計画を作る
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- 参画と二つの窓口、日々の連絡で図る
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- ADHD児と対応した奮戦記
- ソーシャルスキルを育てる
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- ADHDとASを併発しているA君
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- 子どもから学ぶことが一番の対処法である
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- 信頼と尊敬を取り戻す
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- 出会いの日から布石を打つ
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- 国語科の単元学習批判 (第1回)
- 「言葉の教育」の内実が問われている
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- 算数科の「問題解決学習」批判 (第1回)
- 算数科「問題解決学習」の実相を探る
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- 教育ニュース・ズームアップ
- 1)自公両党が教基法改正の中間報告 2)文科省が学校教育に関し意識調査 3)日Pがマスメディアと青少年調査
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- 家庭の教育力の復権 (第6回)
- 「体罰」の教育的考察(上)
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- 人権教育の再構築 (第6回)
- 「隠れたカリキュラム」による人権教育
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- TOSS授業技量の検定 (第6回)
- 学級崩壊のクラスで授業を成立させる力量がD表の25級である
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- 「志」を育てる教育 (第6回)
- 社会と未来の発見―志の芽生え
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- 編集後記
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編集後記
〇…今後の特別支援教育の在り方について、文科省の調査研究協力者会議では最終報告を昨年の三月に公表しました。文科省はこの報告を受け、05年度中に諸法案の改正を行い、年度から施行に移していく方針を打ち出しています。
今回の改訂に対し賛否両論がありますが、文科省が従来の「特殊教育」から転換を図ろうとしていることも事実です。すでに文科省の特殊教育課は特別支援教育課に変わっています。この姿勢から日本の「特殊教育」もようやく見直されるとする期待もあります。マスコミでは今回の改訂を普通学校への門戸が拡大したと歓迎する意見もあります。しかし他方で障害児を排除しながら急速に進められている「能力主義」の教育改革は「特殊教育」振興と普通学級での能力主義と表裏一体であるとの批判も出ています。
こうした動きを背景に、「特別支援教育コーディネーター」という役割を学校で考えたいとする意見もあります。つまり「障害児教育」を担当者や担任という「教員」だけでなく、教頭、養護教諭担当、教務主任、学年主任、事務職員等複数の教職員が担い、学校全体の協力、協同のもとに「普通学級」で推進するためにコーディネーターを置くようにするという提案です。これは従来の学校組織全体の見直しを図る提案といえます。
『校長の「仕事」とは何か』を提言されている新潟の大森校長は「特別支援教育が学校を変える」と指摘しています。従来の通り一遍的な児童・生徒指導ではこれからは対応できないというわけです。問題は、組織はあるが児童・生徒指導が通り一遍になっており、対応力を鍛える場になっていないというわけです。本号は「特別支援教育」によって学校はどう変わるのかを軸に特集を組みました。
〈江部 満〉
〇…人気ドラマ「冬のソナタ」を見ました。呉善花さんではないけど、何と日本人と顔かたちが似ているのでしょう。思考回路も似ているなとか、欧米では人気が出るのかなとか、似ているのに言葉や文字はまったく違うのはどうしてか―とか、余計なことばかり考えていました。
発見したことは、民族衣装のチマチョゴリを着けている人が一人も登場していないことです。(もっともとびとびでしか見ていないので断言は出来ませんが)
もはや向うでも日本の和服と同じ運命なのかも知れません。そうだとしたら、あの在日朝鮮人学校の生徒さんたちの着用は何なのか…と疑問に思いました。
しかし「でも、主人公たちがチマチョゴリだったら日本でこれだけブームになったかしら」と、友人に告げると、「よくも悪くも世界はどんどん均一化の方向に向っている時代だから、服装によって相互理解にバリアーを築くのはナンセンス…」でした。皆さんはどう思われますか。
〈樋口雅子〉
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- 明治図書