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今月のメッセージ
学校で学ぶ意味は何か
常任委員 高 橋 廉
「授業崩壊」や「授業困難」を問題にするとき、ややもすれば喧噪とした無秩序な授業が問題にされやすいが、「意見の出ない授業」もまた「授業困難」である事実が軽視されているのではないだろうか。(私たちは、行政主導の授業に見られるような「教師の意図にそうように教師向けに発言する」ことを「意見が出る」授業とは考えない)
今日、「子どもたちが学びの意味を喪失している」問題が指摘されているが、子どもが「学びの意味」をつかめない問題の中心は、「意見が出せない学び方」と深い関係にあると思う。
「意見を出す」とは、質問も含めて「自分の視点を出す」ことである。子どもたちが「学校で学ぶ意味」の中心は、お互いに自分の質問・視点を出しあい、刺激しあいながら、仲間の再認識・再発見をしあうことにある。教材解釈と平行して、こうした仲間認識のプロセスが存在しない学びは子どもたちにとって秦学校で学ぶ意味のない学び紳である。いいかえれば、他者認識を介しながら自分の再認識・再発見(自己認識)をすすめるという人格的関係のある学びが保障されないとき、彼らは秦学校で学ぶ意味紳を喪失するのである。
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授業で各人の視点を出し合うためには、文章で質問・意見を書くことも重要である。
ある研究会で、まだ二〇代の男のK先生(中学・社会)が「教科つうしんで紙上討論を組織したい」とする実践を報告した。
ところが生徒にそれを提案すると「つうしんにのせる時は名前を出さないでほしい」という要望が出、K先生はけっきょくそれを受け入れたという。実はK先生自身の中に「名前をのせると生徒はホンネを書かない」という疑いがもともと存在していたという。彼はメール交信が好きでオンライン・コミュニティの一員だったのだが、そこで「匿名で発信する自由」を楽しみ、それに慣れ親しんでいたのである。だから生徒の要望を前にした時、自分の提案に反してこれに共感し、受容したのである。
いま生徒たちは、K先生以上に「ケータイ」=メール交信のとりこになっている。しかし彼らのメール交信は外に対しては完全に壁が立てられている。彼らの「ケータイ」は私的空間のものであっても公的に発言するためのツールではない。むしろ外部に対しては、「匿名・偽名」による無責任ないやがらせ・攻撃が問題化している。
K先生の教科つうしんを見ると匿名ばかりである。はたして「匿名による発言」は仲間認識・自己認識をすすめる「学びの共同」と両立するのだろうか。「匿名で発信する自由」は確かに必要な時もあるが、責任の回避・個人の自由の絶対化と一体となって賛美されるそれには注意をはらう必要がある。
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授業で子どもが意見を出す上での最大の障害は、教師を中心とした権力的関係のシステムの中にある。教師はその点で細心の自覚が必要である。たとえば、教師が情熱的に語れば語るほど、それと裏腹に、教師の視点が絶対視される授業になりやすい。あるいは、教師の気がつかない視点・教師と対立的な視点がつぶやかれた時、それにていねいに耳を傾けるだけでは不足である。その視点をいっそう補強してやり、論点にまでしたてる援助がなければ、子どもにとってはけっきょくは同じことである。
また、意見の出せない障害の一つは「笑われる」ことである。仲間を嘲笑する生徒に対して教師が非難・排除するだけでは解決にならない。逆に、可能な限り世の中の論点と結びつけて彼(彼女)の視点を強めてやり、討論にふすなどのくふうが必要である。
今、子どもたちが学校で学ぶ意味・元気に校門をくぐって学校に入れる意味を回復するために、その障害になっているものを次々とハッキリさせる必要がある。
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- 明治図書