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今月のメッセージ
子どもたちの関係性の回復と自立を〜佐世保の小六事件に思う〜
常任委員 折出 健二
六月一日に長崎県佐世保市の小学校で、六年生の女子が同級生の女子をカッターナイフで切りつけ殺害する事件が起きました。日頃から「仲良し」と見られていたこの二人に、一体、何があったのか。
この事件についての報道内容をまとめると、敢インターネットによる記号化された文字が生み出す独特の世界、柑前思春期に見られる親密関係への気遣い、桓成績のこと、部活の退部、家族関係など加害女子のストレスの可能性、棺ある小説に影響されたと思われる、少女のなかでのバーチャルな世界と現実との混同、といった背景要因をあげています。
この事件の背後にある「何か」を知ろうと、メディアは、二人が参加していた「チャット」(ネット上で公開される会話)の場面、加害女子のメール発言や創作の小説・詩の内容、そして二人の「交換日記」まで取り上げました。付添人弁護士は家庭裁判所に十一歳としては異例の精神鑑定を申請し、認められたので、さらに新たな情報も得られるかもしれませんが、「異常な」少女の犯行とするのは早計のように思います。
各種報道からも、ネット上での当人が傷つくような発言など、加害女子には何らかのショック体験あるいはつよいストレスと感じるできごとがあったことは十分にうかがえます。それが、なぜ殺害行為になったのか。これを彼女の個人的な特性(「攻撃」や「破壊」につながる内的な特質)によるものとしてみる見解も出されていますが、私見では、これほどに本音をぶつけあう親密な関係を持ちながら、そこで生じたトラブルを乗り越えていくだけの仲間どうしの〈つながり〉、自立していく者どうしの作法、そこに生まれる開かれた公共空間が必ずしも成り立っていないことにむしろ大きな課題があり、ここにもっと目を向けていくべきではないかと思います。
一番の問題は、親密に見える関係をつくっていた二人の間で、一方が他方を消し去るという暴力の極みと言える関係破壊の行為がなぜ起きたのか、にあるからです。
この事件を自分たちの世代と重ねて読みとろうとしている子どももいます。
「小6。大人から見たらまだまだ子どもだけど、小6であっても感情だってある、交友関係だってある。だから、感情に関しては、子どもと大人の違いなんて全然ない。でも、経験が浅い。刺してしまった少女は、経験のある大人よりずっと弱い心をしている。だから、今すごく苦しんでいると思う。わかってあげたい、その子の気持ち」
「一人の子の未来を、命を奪った罪は決して消えない。奪ってしまったあの子が生涯負い続けなきゃいけない罰だから、まわりの大人は少しでもその子をサポートするのが役目だと思う。現代の大人って子どもがどんなこと感じているかわかってないよね。だからこの事件でもっと子どもの気持ちを考えた方がいい」
いずれも『朝日中学生ウイークリー』六月二〇日付に載った中学二年生の意見(抜粋)です。この二人とも、暗に自分たちの関係性やこれに伴う感情が大人たちに伝わっていないことを、この事件をとおして訴えています。わたしは、ここに着目すべきではないかと思います。
というのは、この構図は、一九九〇年代から続く「いじめ」問題における当事者の子どもたちと大人たちとの「溝」にも通じる問題であるからです。つまり、大人の側は、インターネットの「悪影響」から子どもたちを遠ざけるとか、ネット社会でのモラルのなさがこの事件の要因でもあるので今後は「モラル教育」に力を入れる必要がある、などと規制や「心の教育」の強化の方向で動き始めています。子どもたちがアクティング・アウトでしか表出できない、その生き方の現実にせまり、それを社会的・公共的な、つまり子ども・大人を含む同じ平面での〈つながり〉のあり方として問い直す作業こそがいまもとめられているのではないでしょうか。
今回の事件は、ネット社会での「いじめ」とも呼べるほどに、関係性のあやうさを示しています。
加害女子は、ネットで自分のことを否定的に書き連ねられて相手に「嫌だ」の気持ちを伝え、謝ってほしかったのでしょう。毎日クラスで顔を会わせているが、ネット上での謝罪がこの場合意味を持つのです。しかし、相手がなかなかその非を認めないので報復の感情が膨張して、もはや相手からの返事を聞きたくない、「相手を消す」という行為につながったという面も考えられます。
もしそう言えるなら、もっと別の形で「つながり」を組み替えていくことがなぜできなかったのか。ここが、私たちに突きつけられた問題だと思います。
自分の受けたつらい体験を公共空間、つまり学級集団、仲間集団、部活などのグループ、あるいは私的なグループのいずれかにスピークアウトすることができにくいところに、こんにちの子どもたちの抱える閉塞感があるのではないでしょうか。
子どもたちがネット上で自由に本音を出し合えることは、新しいコミュニケーションの世界を得た意味で大事だと私は思います。しかし、今回のように知り合っている者どうしのネット世界にとっては、現実生活のなかに公共的な〈つながり〉をいつでも発動させることのできる状態がどこかに確保されていることが必要なのだと言えます。
子どもたちの関係の公共性が弱く内向きの関係で私的領域がどんどんふくらむと、自分がこれほど辛い気持ちにさせられているのだから相手は謝るべきだ、と「わたし」中心の解決を図ろうとします。「わたし」をいらだたせ、「わたし」をかき乱す者は、「わたし」の世界への侵入者にひとしく、たとえ今まで「仲良し」であった者でも、それは排除ないし抹殺してよい存在にさえ見えてくる。この点では、先の中学生の意見にもあった、「経験」のすくない今日の前思春期のかかえる社会性の問題があるのではないでしょうか。
私は本誌八月号の拙稿で、「秦つながる紳と言えば、まず親密な関係をつくることが浮かぶでしょうが、初めから親密さだけを目的にして少人数のグループに閉じこもった状態は、つながっているようで他者や外界とは切れています。その場合には、内部での力関係によって自由に自己を表現できなかったり、従属状態であったりするのです。それは抑圧性に転化していく状態をいつも抱えることになります」と述べました。
子どもたちの〈つながり〉のもつ公共性というのは、これから深めていく教育課題ではありますが、そこに踏み込んでいかないと、今回の事件をめぐって同年代から「私も加害者になりかけた」「前から誰かを殴りたいと思い続けてきた」などの反応が出されていることからも、子どもが内側へ内側へと自分を責めて、その結果として他者を殺傷することにもなりかねません。
新自由主義の競争原理がこういう自責・自虐の現象となって思春期の子どもの中に浸透しつつあることを、今回の事件は示唆しています。こういう社会的文脈で起きたことも私たちは受け止め、小学六年の加害・被害の女子によって問いかけられたこの事件の意味を探っていきたいと思います。
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