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今月のメッセージ
気になる暴言
常任委員 安島 文男
暴言はトラブルとしてどのような意味をもっているのか、これまで直接的な暴力行使に翻弄されてあまり考えることがなかった。暴力と同質のものなのか。自分の暴力性を解きはなつ「コトバ」なのか。暴力行為を抑止しようという意図が暴言のなかにはあるのか。それとも暴力に侵されつつある「自分」を恐れての呻き、身悶え、訴えなのかなどの疑問がある。
数年前、「ブッコロシテヤル」という「コトバ」を発する男子に出会ったことがある。中学一年生で、授業中挙手しているのに指名しなかったり、指名しても答をまちがえたときに、「ブッコロシテヤル」と発する。驚いたが、聞き流していた。その「コトバ」の意味していることが理解できず、意味をもった「コトバ」として受けとめられなかったからである。それでも毎授業続くと気になってくる。
そういうとき、女子の一人がぽつんと言った。「先生、やさしいんですね」。
その言葉で気づかされたことがある。かれの「ブッコロシテヤル」は、自分自身に向けて叫んでいるのではないか、と。
しかし、次の小学六年生男子の暴言は「ブッコロシテヤル」「死ね」「ウザイ」という短い切り裂くような暴言とは異なり、意味内容が明確に過ぎるように思う。
「てめえなんかなんで担任になったんだ。俺たちはお前なんか認めない」「お前のせいでストレスがたまる。お前なんか死ね! 教師やめろ!」「二階から飛び降りて死ね!バカ!アホ!くそが……」(二〇〇六年大会レポート、荒れ・暴力の指導分科会「崩壊教室の再生」)
レポートを読んだとき、まるでわたし自身に向けて投げつけられたような気がした。加害者としての教師、加害としての教育……。これはやはり暴言となるのだろうか。暴言としては論理性をそなえすぎているとも思う。この男子は意味がわかって発し、担任を傷つけ、苦しませているということも察しているのだろうか。彼自身の内に投影された権威的な教師像に向けて発している暴言だし、かれの葛藤が暴言という形をとっているのだから理解して発しているわけではないと考えたいが、彼はわかっているし、傷つけているということも感じとっているのではないかと思う。問題は、にもかかわらず暴言を吐き続ける「かれ」がいるということではないか。
「ブッコロシテヤル」には自分に向けて発しつつ、絶望を深めるほどにその攻撃性を他者へ転じていくプロセスがあったかもしれない。それとは逆に、この小六の男子の暴言には自分に向けて発していた時期があったのではないか。それが最も身近で重要な他者への攻撃性・暴力性に転じられていくとき、実は自分自身への攻撃性ともなっていると理解すると、暴言の内容が明確にすぎるのは、自分を喪失していく恐れとともに、そのことの理解を求めていると受けとめられる。
そして、そういう「今」を生きている子どもの状況が、否応なしに子どもと教師を対立するように導き、しかも激化させつつ集団化している。佐々木さんのレポート(対話・討論・討議づくり分科会「大荒れの中三を担任して」)には、「暴言の嵐」という記述がある。そして、「集団が壊れている」という言い方をしている。保護者の暴言も増加し悪質化している。他者の尊重どころか、他者の尊厳を侵害する社会がかつてないほどに広がっている。
それは子どもにとって、未来を考えることが夢や希望を喪失させ、努力することが自分の能力への不信を深め、現実からの逃避が生活の破壊を招くような不安と恐れのある社会となっているということであろう。その生きにくさの危機を対立としてきわだたせているのが暴言ではないのか。
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- 明治図書