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今月のメッセージ
物語のちからと出会う、自分の物語と出会う、他者の物語と出会う
愛知教育大学 藤井 啓之
小説の中では、さまざまな登場人物が生きている。彼・彼女らは、それぞれの置かれたマクロ・ミクロな状況による制約のなかで、それぞれのものの見方・考え方・生き方を形づくっている。良い小説とは、私が思うに、それぞれの生き方がつくられるにいたる事情や背景がきちんと描かれており、それぞれの生き方が出会ったり別れたりするなかで、衝突したり融合したりしながら、それぞれに新たな生き方を生み出していくとともに、自他の生き方を形づくってきた事情や背景が、お互いに読み直され、つくり直されていく(ことを予想させる)ものではないだろうか。
この、ものの見方・考え方・生き方を、それぞれの物語と呼ぶならば、小説は、いくつかの典型的な物語を取り上げて書かれている。逆の見方をすれば、いくつもの別の物語を捨象して描かれているのが小説だ。だからこそ、読み手はそれぞれの物語の理解が容易となるし、容易であるから心を動かされやすいのだろう。
「事実は小説よりも奇なり」というフレーズがある。教師の前にあらわれる子どもはみな、どんなに幼くとも、選ばされたり選んだりしながら、物語を生きている。表面上、小説ほどドラマチックには見えなくても、それぞれの子どもの中では大小様々な出来事が折り重なり、本人にとってはとてもドラマチックな物語が展開している。しかし、多くの小説とは違って、現実の登場人物はとても多い。さらに、登場人物相互のかかわりが新たな物語を生み出し続けているから、物語はいっそう錯綜する。しかも、小説のように作者が典型的な出来事を選んでわかりやすく示してはくれない。教師は自分で出来事を見つけ出し、物語を読み解いていかなければならないのだ。この複雑さや困難さの前に立ち尽くし、教師は物語を読むことをやめてしまう誘惑に駆られることもあるだろう。そのとき、教師は、制度としての学校という、子どもたちの多様な物語を無化してしまう物語で、子どもたちの物語を塗りつぶしてしまって対処しようとするかもしれない。否、そもそもそれぞれの物語を持つことを許さない力で、制度としての学校の物語は教師にのしかかっているのだろう。
しかし、制度の物語を押しつけることは、二重に教師の仕事を苦しいものにする。まず一方で、制度の物語は、教師自身の物語を粗末にする。教師が子どもたちに向き合うとき、生き方をかけて向き合えないからだ。このことは、教師を子どもたちにとってよそよそしいものにする。教師自身も、自らの物語と出会うことができない。他方、子どもたちの学びとは、彼らの物語と他者の物語や新たな出来事とが触れ合うなかで、物語が編み直されていくことだ。だから、子どもたちの物語をカッコに入れて押しつけられるものごとは、彼らの物語とすれ違うしかない。こうして、子どもたちが学びを通して豊かになっていく回路を閉じてしまう。教師の仕事の結果として、子どもたちが育っていかないのだ。
重松清の『青い鳥』などを読むと、多くの教師が子どもたちと自分自身の物語を読むことから疎外されている現実が垣間見えてくる。そして、あらためて物語を読むことの重要性を認識することができる。
かつて寺山修司は、若者にめがけて「書を捨てて街に出よう」と言った。でも、今は、こう言い換えてよいのではないか。「みなさん、書(物語の意味でもあり、また教師自身の物語でもある)を持って街(教育現場)に出よう。」
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