詳細情報
国語科教育が言葉の教育になる日は来るのか (第6回)
文法という役に立たない知識学習の残酷さ
書誌
国語教育
2005年9月号
著者
渋谷 孝
ジャンル
国語
本文抜粋
一 「おっしゃいました」は、なぜ一文節なのか 文法の問題は、私的な「思い出」から始めなければ、どうにもならない。一九四四(昭和十九)年七月頃、私は、山形県南部の山々に囲まれた農村部の小学校高等科の一年生であった。太平洋戦争中の、辛うじて授業が行なわれていた最後の頃に教わった「言葉の観察」という教材に…
対象
小学校
/
中学校
種別
連載・常設
仕様
全5ページ (
50ポイント
)
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